相国寺開山塔(開山堂)龍渕水の庭

(北)貴船神社本宮、西側の山中約110m地点と(南)熊野本宮大社大斎原中心を結ぶ神の通り道は開山堂-(京都御所)この神の通り道に沿う御花御殿と御常御殿を結ぶ方向に伸びる廊下-渉成園-(奈良)天智天皇、天武天皇の母、斉明天皇越智崗上陵を通過する。開山堂東側の道路は熊野本宮大社大斎原を指し示している。熊野本宮大社の主祭神スサノオの孫と貴船神社の主祭神オカミノカミの娘との間に生まれた息子の第三世が大国主と伝わる。更に開山堂から庭を見てスサノオを主祭神とする八坂神社の方角に庭中心石が置いてあるので、庭中心石にスサノオが権現していることになる。このようにすることで河内源氏が信仰する神々を開山堂に迎え入れる庭としている。開山堂は相国寺大方丈と同じく南に(奈良)巣山古墳・馬見丘古墳群、北に(福井)若狭彦神社上社を遥拝している。開山堂と巣山古墳を結んだ線は京都御所紫宸殿を通過するので、庭は紫宸殿・巣山古墳を遥拝するためにあり、京都御所を強く意識したものとなっている。尚、若狭彦神社上社と巣山古墳を結んだ線は(相国寺境内塔頭)瑞春院を通過する。以上のように立派な神の通り道、遥拝先を持つが、これらに頼り美しくなったレベルの庭ではなく、枯山水の激流にて応仁の乱を画き戦乱の世の反省を込めた、飛びぬけて美しい方丈北(裏)庭と同じように教訓的な意味を持っている。紫宸殿を意識した庭らしく、開山堂目前に長方形に囲んだ白砂面が広がり、その周りに深く掘り込まれた澤谷があり、澤谷の両側が苔面となっている。澤谷外側の苔面には地面から幹が花開くように育てられたカエデが多く植えられ、風を感じさせる。易経に当てはめると天空の天と、天空を反射する白砂の天の間に、風を感じさせる樹木と、水が流れる深く掘り込んだ澤がある。天(天皇家)と天(将軍家)を結びつけるものは風と澤だと庭にその答えが書かれている。澤谷に水が流れておれば、より風を感じることができるので、水が流れていないことがもったいないが、天皇家と将軍家の間に入いり両者を結びつける役割を持たされた相国寺住職が「61風澤中孚(ふうたくちゅうふ)誠意内にあり」の精神で両者の間に立ち、大いなる愛を持って節度、節操ある行動を行うと天皇家と将軍家に「61風澤中孚(ふうたくちゅうふ)誠意内にあり」親が子を思うほどの純真な信頼が生まれることを画いている。この庭は江戸後期に公武合体を進める徳川幕府の手で作られ相国寺住職の心構えを画いたと読んだ。禅修行の心構えも画かれている。かつては谷澤に水が流れていたが、決められた水路を水が流れるように、水は向かうべき所に向かい、決められた水路を通り流れ続ける。このように、繰り返し、繰り返し同じ道を通り行いを続けていると、谷澤(道)の両側が削られ、両側の土に埋まっていた石が姿を現し、ものごとの本質が浮かび上がり見えてくることを示し、学習とは繰り返し、繰り返し行い続けることだと教えている。東から西へと流れる水の流れに見せた白砂の上にいくつかの石が置かれている。それらの石は流れに逆らい、歯を食いしばるように水に対抗している。水の流れに洗われるような平たい面を見せる石もある。白砂上の石を相国寺僧侶に見立て、連続的に向かってくる水(仏法)にて身動きが取れなくなるも、自らの徳と才知を養うため修行に明け暮れている姿が表現されている。その姿を夢窓国師が見守っている。龍渕水の庭の名は「水の流れの中に龍がひそむ」と解釈できるので、相国寺は幕府から人材育成を求められていたと読める。現在、澤谷に水が流れていないことが極めてもったいない。