蘆山寺 源氏庭

紫式部の邸宅址は源氏庭の中央あたり、クロマツの巨木2本が育ち、その根元に紫式部顕彰碑が据えられている。築地塀外側に数本のシロダモの巨木、アラカシの大木あり、白砂庭はこれら樹木に包まれ、埋まりそうになっている。本堂から庭に向かい右側に天皇家とのつながりを感じさせるタチバナがあり黄色い実をたくさんつけていた。ずいぶんと神々しい庭なので神の通り道を調べた。藤原氏の氏神を祀る吉田神社本殿第一殿~第四殿と双ヶ岡二の丘を結ぶ神の通り道は当寺本殿・元三大師堂-梨木神社神門-京都御所紫宸殿-妙心寺仏殿、衡梅院及び退蔵院を通過した。本殿の傍には慶光天皇(閑院宮典仁親王)廬山寺陵があり、当寺北隣は江戸時代に皇室と関係深かった清浄華院、寺町通りを跨いだ西隣には梨木神社、更にその隣には京都御苑、北側1㎞範囲内には相国寺、糺の森京都御所、仙洞御所があるので、庭が神々しくないはずがない。正確ではないが、本殿は南に奈良、高鴨神社を遥拝しているようで、東に吉田神社大元宮、西に京都御所を遥拝している。境内にどれほどの神や霊が宿っているのだろうかと思ってしまった。「京の冬の旅」非公開文化財特別公開ガイドの庭説明がよく聞き取れなかったので、自分なりに解釈すると「勅使門から入いると苔の部分が雲のように感じるようになっている。雲を介し天に近づくことを意味する庭となっている。」これから類推すると天空の光を反射する白砂の意味は、天空の地位にいる天皇や貴族が白砂に映っている。白砂庭を介し天皇、貴族を感じることができても、一般人は天皇、貴族に接することはできない、庭を汚すことができても天空まで汚すことなどできない。つまり、実力者がいくら力を発揮し、天皇や貴族を抑え込もうとしても、抑え込むことなど到底できるものではないという意味に取れる。明治維新からこれまで天皇の権威を強調した政治が続いているが、その政治風潮に合わせ、現代庭に白砂を多用することで、天皇の権威を庭に持ち込み、天皇崇拝の美しさと庭の美しさを掛け合わせたのだと思った。元三大師堂ではガイドが「1571年(元亀3年)織田信長の比叡山焼き討ちに際し、記録にはないが、当寺を焼き討ちするため進軍中だった明智光秀は仏教への信仰心強く、当寺の焼き討ちを避けたく、正親町天皇に女房奉書を発給してもらうべくお願いをした。女房奉書発給に同意して頂けた結果、当寺への焼き討ちが食い止められた。その御礼として、明智光秀は自身の念持仏である厨子入りの地蔵菩薩を正親町天皇に送ったと伝えられている。」と説明された。美談であるが、織田信長の完璧主義の性格から見て、進軍前に織田信長の了承なく、明智光秀が自己判断で当寺の焼き討ちを食い止めることなど出来るはずがない。織田信長と明智光秀が正親町天皇との太いパイプを作るため行った政治工作だったと読める。本堂と元三大師堂の間の中庭、そして本堂裏庭は樹木を通し季節を楽しむ庭だった。京都の寺社見学は樹木の隙間から覗き込むように歴史の一端を垣間見ることができる。