周山城

1579年(天正7年7月)宇津城を落とした明智光秀は宇津城から直線4㎞地点の交通の要所に新たに周山城を築いた。完成は翌年(天正8年)のようだ。天正9年8月の十五夜に光秀が津田宗及を招き月見をした。城の登り口近くの慈眼寺にある黒塗りの光秀の木像を拝観したが、聡明な、私欲を表に出さない印象を受けた。黒塗りにされたことで闇のなかにある光秀の生涯が表現されている。天正12年、秀吉が周山城を訪れた後すぐに破城(廃城)されたようで、わずかの期間だけ使用された大規模城だ。聡明な光秀が役に立たないものに巨額投資するはずがなく、本能寺の変から約2年後に破城されたということは隠された歴史の重要な役割を果たし、その隠蔽のため早々に廃城されたと推理した。石碑「周山城跡」を抜け二の丸、主郭に向けて登り始めると、体を反らし見上げるほどに、そり立った急斜面の上に二の丸、主郭がある。天守は周山街道を行きかう人々、桂川とその上流の川を利用した水運で行き交う人々を威圧していたことが感じられる。亀山城と同様、この城は京都と地方の情報、物流、人の流れを遮断し、京都北部の山の中に派兵するに適している。東面を登る際の山道は小石混じりで、水はけが良すぎる印象を受けた。主郭の北西にある小さな井戸跡を見て、どれだけの人が飲むに足りる水量があるのだろうか、雨が降らなければ数百人が一週間ほど飲めば枯れてしまうのではないかと思った。天守台の北西に直径10mの窪地がある。天守、主郭建屋に降り注いだ雨水を集め、地下水にして井戸へ水を送るため作ったのだろう。水に苦しめられた岐阜城と同じく周囲を威圧する城で、威圧する意義がなくなったのも廃城にされた理由だろう。先の亀山城の記事でも書いたが、本能寺の変において周山城は織田信長、信忠一行の隠密逃避行を助けるため、信長、信忠一行が通る街道を封鎖し、封鎖された街道を利用しようとする人を他の街道に誘導する作戦拠点(司令部)だったと推測した。当城から各街道の分岐点、抜け道入口、関所などに兵を送り警備と誘導を行ない、第三者に見られることなく信長、信忠一行は逃避できたと考えた。一行は馬が走らせやすい(朽木経由の)若狭街道を抜け小浜港から乗船したと思う。鞍馬街道と西近江路は若狭街道封鎖による迂回路にされたと思う。その事実を隠すため早々に周山城を廃城したと推測した。原形を留めている城跡は明智光秀が本能寺の変を起こす直前に信長、信忠一行を逃避行させた証拠の一つだと思った。