二条城(1)

30数年前からいろいろな季節に二の丸庭園を訪れている。整備が行き届いた庭はいつも清々しい。幕府の貫禄を示す大胆な構成、洗練された石組は鑑賞者を圧倒する。軍師だった明治天皇が自ら指示し改修した、まるで自らが司令官として戦った指揮所(陣地)を再現したかのような本丸庭園とは次元が違う。明治政府は二の丸庭園にあった多くのソテツを抜き、他の樹木に植え替えたが庭を潰せなかった。二の丸御殿と庭は強い神佛の通り道の下に有り、神佛に守られているのだと思う。それらを読み解くためグーグル地図で二条城の神佛の通り道と遥拝線を調べた。二条城は徳川家光(在職期間1623年~1651年)が後水尾天皇の行幸を迎えるため1624年~1626年の寛永の大改修で拡張した。改修の真の目的を下記する神佛の通り道(遥拝先)から読み解くと一つは後金(後の清朝)・李氏朝鮮に対し親密に、威厳を持ち、緊張感を持ち、準備を持って接することを示すため、もう一つは二条城を日本古来の神々が集う日本一の聖地にすることだった。(二条城)外堀の東南の端と西北の端を結んだ線を伸ばすとヌルハチと妻の陵墓(中国瀋陽)福陵に到達する。この遥拝線上には(京都)龍安寺と高山寺があり、逆方向には(京都)六波羅蜜寺本堂が控えている。織田信長の南伊勢併合戦の象徴(三重)大河内城の本丸跡と福陵を結んだ線は(京都)建仁寺本堂-二条城二の丸-大将軍八神社を通過する。大河内城本丸跡と(ヌルハチ後継者)ホンタイジと妻の陵墓(中国瀋陽)清陵を結んだ線は(京都)大谷本廟-六波羅蜜寺-二条城本丸-龍安寺を通過する。ヌルハチが亡くなったのは1626年、その1カ月後に後水尾天皇の行幸を迎えている。(京都)南禅寺の伽藍、参道は二条城とその先の(韓国)甑山倭城・釜山鎮城(子城台倭城)を遥拝しているが、南禅寺本殿、三門の中心とその参道中央を貫く線を西に伸ばすと二条城天守の南辺-木島坐天照御魂神社(蚕ノ社)-広隆寺-車折神社-鹿王院-天龍寺境内を通過し、釜山鎮城中心付近と甑山倭城中心に到達する。二条城は外堀、内堀、東西方向の石垣、天守台、二の丸御殿を含む二条城全体の建屋で甑山倭城、釜山鎮城に向かっており、二条城全体で西には甑山倭城、釜山鎮城及び上記した京都の寺社を、東には南禅寺を遥拝している。高層ビルが建つまで二の丸御殿南側と天守が南禅寺三門から甑山倭城、釜山鎮城などを遥拝する目印となっていた。東大手門は南禅寺の佛を受け入れるため門を開いている。西門は釜山からの客人、遥拝する上記寺社の神佛を迎え入れるためにある。天龍寺法堂は(静岡)久能山東照宮を遥拝しているが、天龍寺大方丈と久能山東照宮を結ぶ神佛の通り道は(天龍寺)法堂・勅使門-長慶天皇嵯峨東陵-鹿王院-広隆寺霊宝殿-(二条城内の近代庭)清流園-禅林寺(永観堂)-(滋賀)圓満院宸殿-五百井神社奥宮山王社-(浜松)秋葉山本宮秋葉神社上社(本殿)を通過する。このように二条城は東西方向において、東山麓の南禅寺を起点とする神佛の通り道(遥拝線)と、嵯峨の天龍寺を起点とする神佛の通り道(遥拝線)が通っている。(二条城の北)大徳寺伽藍は熊野那智大社を遥拝しているが、寝堂、法堂、仏殿、三門のそれぞれの中心を結んだ線の先には(二条城)二の丸庭園の蓬莱島中心-線の東200mに神功皇后陵-唐招提寺講堂・金堂-薬師寺境内-線の東50mに耳成山-文武天皇陵-熊野那智大社第1~6殿がある。大徳寺の多くの塔頭も熊野那智大社を遥拝しており、大徳寺の略全体でこれら聖地を遥拝している。(京都山科)毘沙門堂は慶長年間に復興が開始されたが、二条城拡張と関係があると思う。毘沙門堂本堂と(韓国)洞華寺中心を結んだ線は青蓮院-二条城本丸-法金剛院-(亀岡)愛宕神社(元愛宕)を通過し、(二条城)鳴子門-本丸の東北端-内堀外側の西北端を結んだ線の先に韓国の洞華寺中心がある。(二条城)外堀の東北端と天守台の西南端を結ぶ線の先(西南方向)に(宮崎)高千穂神社がある。(二条城)外堀の東南端と北側の外堀でくびれた部分の外側端(二条城改築前の北西の端)を結ぶ線の先に元伊勢籠神社(このじんじゃ)があり、この線上に二条城の黒書院・大広間がある。天守台・内堀南北方向の石垣ライン・外堀西側の石垣ライン・二の丸御殿など建屋は北に(福井)若狭彦神社上社を、南に(奈良)高鴨神社(名神大社)を指し、二条城全体で若狭彦神社上社と高鴨神社本殿を遥拝している。若狭彦神社上社本殿と高鴨神社本殿を結ぶ神の通り道は二条城本丸を通過する。若狭彦神社上社本殿はこの神の通り道に向いて建てられ、二条城を遥拝している。よって若狭彦神社上社本殿と二条城は双方で遥拝し合っている。更にこの神の通り道は(京都)玄武神社-二条城本丸-神泉苑-(清和源氏発祥の宮)六尊王神社-(奈良)駒形大重神社を通過する。若狭彦神社上社本殿と二条城は共にこの神の通り道下の聖地を遥拝している。且つこの神の通り道は(京都)上賀茂神社本殿西100m、西本願寺境内西200m、東寺境内西30m、城南宮境内西200m、(奈良)大宝天皇神社東40m、葛木坐火雷神社東150m、葛城一言主神社西100mを通過しており、この神の通り道を中心線とした大きな神佛の通り道が形成されている。その大きな神佛の通り道の下には多数の小さな寺社、古墳が点在している。例えば若狭彦神社上社本殿と葛木坐火雷神社を結ぶ神の通り道は二条城天守台付近を通過する。上賀茂神社本殿と高鴨神社本殿を結ぶ神の通り道は二の丸御殿、白書院・黒書院を通過する。二条城は南北方向に伸びるこの大きな神佛の通り道に包まれ、上述した南禅寺と天龍寺を起点とする東西方向の神佛の通り道、そして斜めを横断する多数の神佛の通り道の交差点となっている。(二条城)北大手門は若狭彦神社上社を遥拝し、遥拝線は上賀茂神社本殿すぐ傍の山尾神社-晴明神社(隣接して千利休の屋敷があった)を通過する。北大手門は若狭彦神社、上賀茂神社、晴明神社の神々を招き入れている。(二条城)南門と高鴨神社本殿を結んだ神の通り道(遥拝線)下には東寺の食堂・講堂、(田辺市)朱智神社、石船神社(田辺市)、厳島神社(香芝市)を通るので、高鴨神社など神々と東寺の佛を迎え入れるようになっている。二条城東側の外堀内側の石垣は北の(上賀茂神社境内)賀茂山口神社本殿を、外堀外側の石垣は南の葛木御歳神社(中鴨社)・飯豊天皇陵を指さしている。賀茂山口神社本殿と葛木御歳神社を結んだ神の通り道は外堀のすぐ外側(東)を通過する。上賀茂神社本殿と鴨都波神社(下鴨社)を結んだ神の通り道は東側の外堀を通過しているので、上賀茂神社と中鴨社、下鴨社を行き交う神々に方角を知らせるために東側外堀を設けたのではないか、上賀茂神社と上鴨社を結んだ線は二の丸御殿を通過し、建屋は略この方向となっているので、二の丸御殿は両神社を行き交う神々の目印になる位置にしたと読んだ。二条城は四神相応を考慮して作られた平安宮の東南跡、平安宮に隣接した冷泉院跡、神泉苑跡といった尊い地に建てられ、自然災害が少ない地にある。船岡山頂上付近から二条城を眺めると、その先に東西本願寺があり、平城京跡があり、天気の良い日なら奈良の聖山が控えて見える。船岡山から大峰山脈の聖峰を拝むことは二条城を拝むことに通じている。船岡山の三角点と(奈良)弥山頂上を結ぶ神の通り道は天守台-西本願寺-(奈良)ウワナベ古墳-(卑弥呼の墓ではないかと言われている)箸墓古墳-メスリ山古墳を通過する。(京都)禅林寺阿弥陀堂とインドブッダガヤの大菩薩寺を結ぶ神佛の通り道は二の丸御殿黒書院-木島坐天照御魂神社(蚕ノ社)-広隆寺-(長慶天皇嵯峨東陵の南)安倍晴明墓所-天龍寺を通過する。(京都)日向大神宮内宮と出雲大社本殿を結ぶ神の通り道は栗田神社本殿-(二条城)二の丸御殿-清凉寺を通過する。(京都)大徳寺勅使門と熊野本宮大斎原を結ぶ神佛の通り道は本隆寺本堂-二条城天守台-東寺の食堂・講堂・金堂・南大門を貫き-城南宮境内を通過する。東寺伽藍は南に城南宮・熊野本宮大斎原を、北に二条城・本隆寺・大徳寺を遥拝している。(京都)松尾大社本殿と(上野寛永寺)東照宮を結ぶ神の通り道は(二条城)東大手門の少し南側-(京都)金戒光明寺御影堂-(滋賀)近江神宮を通過する。(天海の墓所慈眼堂の近く)日吉東照宮と高千穂神社を結ぶ神の通り道は仙洞御所-(二条城)二の丸御殿と唐門の間を通過する。清和天皇水尾山陵と天智天皇山科陵を結ぶ神の通り道は雙ケ岡-(二条城)天守台南の内堀-円山公園(近くに八坂神社)を通過する。比叡山延暦寺根本中堂と霧島神社本殿を結ぶ神佛の通り道は(比叡山)法華総持院東塔-圓光寺境内東照宮近く-八大神社-京都御所-(二条城)天守台を通過する。この神佛の通り道両側には(淡路島)伊弉諾神宮、霧島神宮元宮がある。霧島神社本殿など建屋は伊吹山頂上を遥拝しているが、その伊吹山頂上の日本武尊像と延暦寺根本中堂を結ぶ線を延長すると(二条城)二の丸御殿に至る。伊吹山から比叡山延暦寺を遥拝することは二条城を遥拝することに通じている。天守台から見た二条城の東北端、そして大宮御所の建屋が日光東照宮の遥拝目印となっている。天守台から東南隅楼の西北端が伊弉諾神宮の遥拝目印となっている。以上のように多くの神佛の通り道が天守台で交差している。天守台の位置決めは神佛の通り道の交差点を考慮したものであり、天守台は(聖山)比叡山を含む東山、愛宕山、大峰山脈の霊峰、そして石清水八幡宮、京都市内の聖地を直接遥拝するため、五山送り火を見るためにあったことが読み取れる。二条城は神佛が宿る京都の中心にあり、上述した代表的な神佛の通り道(遥拝線)以外にまだまだ多くの遥拝線が通っている。これほどまで多くの神佛の通り道が上空で交差しているので、二条城は日本古来の神々が立ち寄り、宿る場であると言っても差し支えないと思う。神佛が宿る池庭なので神々しくて当然だが、神佛の交差点を象徴する天守を借景としていた頃、二の丸御殿大広間から見た二の丸庭園は今以上に神々しかったことだろう。この池庭は神佛の通り道の交差点を日本一多く持っていると言えるのではないだろうか。二の丸御殿と二の丸庭園が潰されることがなかったのは神佛のご加護によるものではないかと思う。以上から二条城は日本古来の神々、そして佛を身近に感じ、東南アジアの平和を祈るために築城したと思う。本丸の(日清戦争直前に改修されたと思う)軍国主義的な、清国(清朝)を倒すことを意思表示したような本丸庭園は二条城全体で清朝・李氏朝鮮と戦争を起こさないことを表示し、神佛が宿る形になっている本来の城に似合っていない。