龍潭寺(亀岡)

大物崩れの戦い直前情景を画いた庭

臨済宗妙心寺派三龍寺(龍安寺・龍興寺・龍潭寺)の一つ、同じ宗派で美しい庭がある浜松龍潭寺・彦根龍潭寺と同名なので凄い庭があるはずだと思い訪問した。予想どおり山門前に優雅で気品あふれる庭あり、山門内に巨石による自然界では見かけない造形美あふれる庭があった。いつどのような目的で作った庭か突き止めるため、先ずは三龍寺について調べた。石庭で有名な龍安寺の創建は1450年(宝徳2年)、開基は応仁の乱(1467年~1478年)の東軍総大将 細川勝元(1430年~1473年)、開山は義天玄承(義天玄詔1393年~1462年)。龍興寺(創建当初は香華寺)創建は龍安寺創建の2年後、1452年(享徳元年)、開基も細川勝元、開山も義天玄承。ここ龍潭寺の創建はそれから約50年後の1492年(明応元年)、開基は細川勝元の子 細川政元(1466年~1507年)。開山は義天玄詔の下で参禅した特芳禅傑(1419年~1506年)。龍譚寺に隣接して大梅寺があった。大梅寺の創建は龍潭寺より12年早い銀閣寺造営開始2年前の1480年(文明12年)、開基は細川政元、開山は(義天玄詔に師事し法を受け継ぎ、特芳禅傑に印可を与えた)雪江宗深(1408年~1486年)。大梅寺は1489年(延徳元年)焼失し細川政元の後援を受けた細川氏家老、松井宗信(?~1534年)が堂宇を再建した。その後、龍潭寺に吸収された。松井宗信は1493年(明応2年)龍潭寺創建に参加した記録があること、細川氏内の細川高国と対立する勢力側にいたこと、1530年(享禄3年)に出家し、龍潭寺で過ごしたことから、細川高国(1484年~1531年)が現在の庭作りに参加した可能性はない。当寺を開山した特芳禅傑は大徳寺46世住持、妙心寺10世住持を務めている。特芳禅傑は龍安寺の再建に取り組み、1488年(長享2年)龍安寺の中興開山となっている。龍安寺の石庭はその時に作庭されたとされているので、特芳禅傑が当寺においても作庭しなかったはずはない。龍安寺には妙心寺を遥拝する方丈と特芳禅傑作の石庭があり、方丈は石庭と通し妙心寺・熊野那智大社を遥拝するようになっている。現在は樹木が借景を隠し、本来の姿を隠した庭となっているが、すぐにでも石庭南側の樹木を剪定すれば方丈内から京都盆地及び妙心寺の伽藍を見ることができ、作庭当時の姿に戻ることができる庭だ。当寺においても創建当初、特芳禅傑が大徳寺・熱田神宮を遥拝する方丈を建て、行者山麓の山裾にある恵まれた地勢を活用し、方丈前に亀岡盆地、愛宕山、嵐山を借景とする龍安寺石庭と似た構成の庭を作ったと考えるのが自然だと思う。庭には愛宕山、銀閣寺・御所を遥拝するポイントがあったはずだ。方丈を大徳寺に向けて建てると90度南の誉田御廟山古墳(応神天皇陵)を遥拝することもできる。方丈を銀閣・御所に向けて建てても南の聖地としては高野山金剛三昧院が当てはまる。但しその際、銀閣と金剛三昧院は直角度の関係とならないので、創建当初の方丈はやはり大徳寺に向け大徳寺、応神天皇陵を遥拝していたはずだ。ところが現在の庭は借景庭園でなく、借景庭園の構造でもない。極めて内省的な庭となっている。方丈もどこにあったのか判らなくなっている。よって特芳禅傑が作った庭ではない。龍の名を持つ寺は大陸と何らかの関係を持っているか、大陸への意思表示をするために命名されたと思う。三龍寺が創建される前、1411年(応永18年)第4代将軍 足利義持(1386年~1428年)は明と国交を断絶した。1432年(永享4年) 第6代将軍 足利義教(1394年~1441年)は国交を回復させ勘合貿易を復活させた。応仁の乱以降その日明貿易は細川氏が中心となった。当、龍潭寺が大梅寺を吸収した頃、細川氏は貿易業で莫大な利益を得ていた。石庭で有名な龍安寺の真東には糺の森(ただすのもり)の中にある河合神社がある。糺の森と海神神社(対馬)とを結んだ線上に龍安寺があり、石庭の石々の長手方向はすべてこの方向に合わせてあった。庭石にて下賀茂神社の祭神、玉依姫命の子孫、八幡神を表現し、両神社を行きかう神の子、転じて虎の子渡しの庭の別称があるように神の子が行きかう様子を石庭に表現していた。龍安寺石庭南の鏡容池は神々と共に往来する龍が安らかにすごす所、転じて日中間を往来する人材を慰労する庭という意味のはず、江戸時代、日明貿易に漢文に長けた多数の臨済宗僧侶が従事していたので、龍安寺の庭は日明貿易従事僧に見せるための庭だったと思う。当寺から北北西約5㎞地点にある龍興寺の真東には比叡山法華総持院東塔がある。その線を反対の西に伸ばし続けると朝鮮半島、釜山の西南、巨済島に至る。巨済島は対馬との海上交通の要衝で朝鮮半島と日本列島の往来に使われてきた。上賀茂神社細殿と毛利輝元築城の倭城、釜山鎮支城跡(現 子城台公園)を線で結ぶと龍興寺方丈を通過する。寺名は大陸と京都を往来する旺盛な龍、或いは大陸と京都を往来する龍を生む寺なので、香華寺が名を変え龍興寺となったことから見て漢文に通じた僧侶を輩出し続けた寺だったと推測した。当、龍潭寺の真東には銀閣寺、京都御所がある。第8代将軍 足利義政(1436年~1490年)が銀閣寺の前身である東山山荘(東山殿)の造営を始めたのが1482年(文明14年)、そして足利義政が亡くなる直前に大梅寺を再建していることから細川氏は銀閣寺と京都御所の真西にあるこの地を重視していたことが読める。銀閣寺と当寺とを結んだ線を西に伸ばすと巨済島に至る。熱田神宮中心と(対馬)和多都美神社を線で結ぶと大徳寺三門、当寺の庫裏・開山堂を通過する。当庭園は熱田神宮と和多都美神社を行きかう神々の立ち寄り所、神々に同行する龍が休む池を持つ寺という意味にとれる。枯れることのない溜まり水池を二つ持つので、水神信仰から龍の名を取り寺名とした可能性があるかも知れない。参道の入り口、階段付近に一対のヒノキの大木が天に向かって伸びている。まるで鳥居のようだ。階段を上がり一対のヒノキを越え参道に入る。参道は裏鬼門と鬼門方角を結ぶように配されている。その向に不自然さを感じるので創建当初ここに参道はなかったと思った。江戸時代に当寺の地割を変え、庭を作り変えたのだろう。参道はゆるやかなカーブを描いているので参道入り口から直接山門は見えない。内省的な雰囲気を感じさせ、実際以上の距離を感じさせる効果を上げている。参道の山腹側は若干カーブを描いた石組みが連続し土手を形成しているので、山門前庭園は土手に上がらないとよく見れない。参道右側(東側)は庭側の石組みとバランスを取るよう大刈込の生垣が設けられている。山門前庭園は北畠氏館跡庭園に似て石々が堂々と使われている。南南西に向く小さな社付近の大きな石々は埋められ虎のような形だけを地上に出している。小さな社が向く先、参道入り口付近には澄んだ溜まり水池がある。庭を封印するかのように多数本のスギ、ヒノキが植えられ、その日陰にコケが美しく育っている。現在の庭の意図を探るため方丈、経堂、開山堂、庫裏、直線参道の向きを調べると南南西の阪神電鉄大物駅付近、尼崎市大物町に向いていた。そこは1531年(享禄4年)大物崩れ(だいもつくずれ)の戦いが行われた地、細川高国の終焉地である。現在につながる各建屋は1729年(享保14年)に再建されているので、その際に庭が改造され現在の姿にされたと読んだ。小さな社が向く正確な先までは判らないが、細川高国の終焉地に向いているように見える。方丈、経堂、開山堂、庫裏、弁財天社は東南東に醍醐寺三宝院を遥拝しているので、歴史上の敗者、細川高国と豊臣秀吉に祈りを捧げる目的で各建屋を再建し、庭は細川高国を慰めるために改造或いは調整したと読んだ。門前前庭園を観ると摂津大物で陣を構える細川高国・浦上村宗の連合軍の姿に見える。池は大阪湾だ。現在、山門前庭園はスギ、ヒノキの大木群の陰に包まれ、細川高国ら武将達の魂を鎮魂する庭となっている。細川高国が作庭した(三重県)北畠氏館跡庭園もスギ大木群の陰の中にある鎮魂庭で庭石は武将達の姿だった。(滋賀県高島市朽木)興聖寺の庭石も武将達だった。ただし興聖寺の庭を観察すると、細川高国の作風でなくなってはいるが庭石は継続使用されたと思う。こちらの多くの庭石は虎が伏すように配され、戦場における戦闘直前の静けさが画かれている。戦闘開始直前の緊迫感がある。それでいて戦場のゆったりとした空気も流れている。綺麗なコケ面がその雰囲気を盛り立てている。山門付近はヒノキの大木群で覆われ、陽が地面に落ちないようになっている。山門が望める地点から山門を望むと実際の距離より山門が遠くに見える。山門を陰の中に置くことで、山門の開口部から見える建屋は太陽や月の光を十分に受けているので神々しく、来訪者に建屋が迫って来るように見せている。方丈前は妙心寺大本山方丈前と同じく地面からなる。山門を潜ると参道左側(山側)に豪快で奇抜な山門内庭園がある。山門前までのゆったりとした風景とはがらりと変わり緊迫感がある。先ほどまで見ていた山門前庭園の北端は切り立った崖となっていて、その崖下に池があるので異様な緊張感がある。山門内を、山門外と極端に違う庭とすることで、大物崩れの戦闘シーンを表現したと気付いた。崖から落とされるように崩れた細川高国・浦上村宗連合軍。その現場情景を、切り立った崖、転げ落ちそうな角型石、奈落の底のような池で表現したものだ。山門外で開戦直前、戦場に流れる静かな空気を表現し、山門内で開戦直後、大物崩れが起きる姿を表現し、開戦前後のドラマとしている。山門外から山門内の庭を見ると、まもなく大物崩れの戦いが始まることを予感させるものとなっている。巨石を護岸石とした弁財天池、その周囲をスギ、ヒノキの大木群が取り囲んでいる。大きく崩れる緊迫感がある。山門内の池は彦根龍潭寺の石庭に隣接する池と同様に「龍潭」(龍がひそむ水をたたえた深い窪み)も表現している。冬は池が白濁する。水面は鏡面だが風景を反射させず、底なし池のような雰囲気となるので、龍が潜んでいるような不気味な池となる。冬の池は寺名通りになる。龍安寺、龍興寺を開基したのは細川勝元、龍潭寺を開基したのは細川勝元の子、細川政元。日本における実質最高権力者だったが実子はおらず、養子に澄之、澄元、高国がいた。澄之は細川政元と折り合いが悪く廃嫡された。細川政元が暗殺された後、2名の養子は細川京兆家の家督と管領職を激しく取り合った。結果、澄元は高国に討たれ、高国は澄元の子、晴元に討たれた。晴元は室町時代最後の実権ある管領職に就き細川京兆家をまとめ政権を確立したが、最高権力者になれなかった。晴元は高国を討った事で高国の優秀な家臣達も離れた。そして高国の養子、細川氏綱が背後についた三好長慶の反乱で没落し没した。最終的に晴元の子、昭元が京兆家の家督を相続したが管領に任命されず、その後、織田信長に仕えた。その子、元勝は(福島)三春藩の家老として遇され、その子孫に細川京兆家をつなげた。晴元の墓は(大阪府高槻市)普門寺で拝める。この庭には近年の軍人墓標が幾本も立っている。まるで大物崩れにて殲滅された部将達と同様に悲惨な死を遂げた近年の軍人達が寄り添っているようだ。細川高国が最初に作庭した(朽木)興聖寺庭園の傍にも近年の軍人墓標があった。細川勝元は応仁の乱の張本人の一人であり、勝元、政元は細川京極家を盛り上げるために奮闘し大きな権益を得、実質の日本最高権力者であり続けたが、結果、政治を迷走させ、日本を戦国時代へと突入させてしまった。政元の養子や孫は細川京兆家内紛を繰り返し、日本をより悲惨な戦いへと導いた。そのような歴史を繰り返させないため徳川幕府が細川京極家と深いゆかりのある当寺の庭に大物崩れの戦いを画き、庭自身に戦いの犠牲者を弔い続けさせているのだと思う。戦国時代を二度と起こさせない祈願庭だ。