賀茂別雷神社(上賀茂神社)

神の庭

上賀茂神社の一の鳥居と二の鳥居との間に広がる広い芝面の広場、そこを貫く参道。出雲大社のマツ参道両側にも芝面の広場が広がっていた。グーグル地図にて出雲大社の参道を延長してもどこかの聖地に到達する訳ではないが、こちらの参道は巣山古墳、馬見古墳群に到る。一の鳥居から二の鳥居に向かって歩くことは巣山古墳、馬見古墳群から歩いてきたことにつながるので神の通り道となっている。馬見古墳群は古代豪族「葛城氏」の墓地という説があるので、古代氏族「賀茂氏」と「葛城氏」は親族だったのだろうか。「旧三井家下鴨別邸」の記事で書いた下鴨神社のすべての建屋は巣山古墳を遥拝していた。「東福寺方丈八相の庭」の記事で書いたが東福寺の大半の建屋も巣山古墳を遥拝していた。東福寺仏殿・三門を貫く参道、通天橋も巣山古墳を指し示し、神の通り道となっていた。これらのことから上賀茂神社、下鴨神社、東福寺は共有の祈りがあるのだろう。一の鳥居と二の鳥居とを結ぶ直線参道の西側にも直線道があるが、そちらは宝来山古墳(日本武尊の祖父、垂仁天皇陵)に向かっていた。 上賀茂神社の本殿・権殿はピッタリと桟敷ヶ岳(さじきがたけ)方向に建てられている。桟敷ヶ岳(標高895.9m)は賀茂川(鴨川)流域の最高峰なので、祈りを桟敷ヶ岳に届けているのだろう。鴨川を支配することは京都を支配し、ひいては日本支配につながっているので特別な祈りが捧げ続けられていることだろう。二の鳥居を潜ってすぐ細殿前には一対の円錐形の立砂が作られている。立札に「立砂は本殿の北北西2km奥にある円錐形の美しい形の神山に因んだもの」と記載されていたので、細殿の背後に神山があるように建てられているのかと思ったが、神山ではなく蓬莱山に向けて建てられていた。蓬莱山は比良山地にある高峰、修験者の霊山だったので、細殿での祈りは蓬莱山に届けられている。細殿の背後に手水舎があり、そのあたりが近代庭になっている。流れの速い「御手洗い川」と「御物忌川」の清流に沿うようにツバキ、サツキ、ヤツデ、アオキ、シダレザクラ、ツツジ、サザンカなど花の美しい木々が植えられ、流れの速い二つの川が合流して「奈良の小川」と名を変え、橘殿の下を潜り岩本社方向へと流れて行く。軽いタッチの庭なので神が遊ぶ感がある。本殿・権殿東側に隣接する新宮神社への参拝道と「御手洗い川」との間にはシャジャンポ、サザンカ、タラヨウ、クスノキが、伊勢神宮遥拝所付近にはサカキが植えられていた。石清水八幡宮と同じく伊勢神宮遥拝所はあるが出雲大社遥拝所はなかった。外幣殿は熊野本宮大社大斎原を遥拝する方向に建てられていたので、大斎原にも気を配っていることが判った。神山の山裾に縄が張られた岩山は神聖な地となっている。庭が求める美とは岩山の風景のような気がした。「奈良の小川」の少し下流には近代庭園の渉渓園が、朱印受付付近には憩いの庭があった。神道は日本人の祖先を神として祭る祖霊崇拝教である。多数の神がいるので、いずれかは日本人誰かの祖先となり血流信仰となる。このような観点で「奈良の小川」の流れを見ていると血流のように見えてくる。インドのジャイナ教、ヒンドゥー教は血族以外の者がジャイナ教、ヒンドゥー教を信仰することをかたくなに拒む。佛教は広く信者を求めるためインドで弾圧され衰退した。飛鳥時代に日本人が佛教を受け入れたのは、すでに血流信仰の神道が有り、その神々の融和を図るのに、愛と悟りを基本とする佛教が適していたからだろう。儒教が文化ベースとなっている中国で熟成された佛教を導入したからこそ、現在につながる整った神社形式が始まり、神社が統一管理されるようになったと思う。それに比して佛教界は統一されず分裂を続けている。信者を広く求める宿命なのだろう。