亀山城(亀岡)

1578年(天正6年)明智光秀は丹波攻略と丹波統治のため亀山城を築城した。1579年(天正7年6月)亀山城の西30㎞の八上城を落城させ、同年7月、北15㎞の宇津城を落城させ、同年8月、西北47㎞の黒井城を落城させたので、丹波攻略に有効だったことが読みとれる。天正10年、大演劇、本能寺の変を起こすため光秀は1.3万の兵を率いこの城を出発したと伝わる。城見学を通じ、守備兵以外に1.3万人もの兵をこの城内だけで寝食させ、整列させることは無理で、農家にまで兵を分配する必要があったと思った。武器を携帯する足軽(兵隊)1.3万人が一人あたり1.2mを使い一列縦隊にて途切れることなく歩いたとして15.6㎞の隊列となる。亀山城から本能寺まで25㎞だが山を越えなければならないので歩行速度は遅く渋滞が起きる。最初の兵が亀岡城を出て本能寺付近に8時間後に到着できたとしても、最後の兵は13~15時間後に到着することになる。桂川の渡河があり、幾度かの整列が必要なので、1.3万人による集団攻撃態勢がとれるのは最初の兵が亀岡城を出発してから約15~17時間後ということになる。もし1.3万人の兵を移動させたのなら2~3分割し複数ルートで本能寺を目指す必要があり、亀山城出発時に作戦計画を各武将に知らしめていなければできるはずがない。それらから本能寺の変における攻撃参加兵員数は1.3万人でないと言い切れるのではないだろうか。参加兵員1.3万人と攻撃開始午前4時は本能寺の変の真実を隠すために作られた数字ではないだろうか。事実は攻撃参加兵員が半数以下、攻撃に参加しなかった兵は周山城と坂本城を拠点にして織田信長、信忠一行の隠密逃避行を助けるため、一行が通る街道を封鎖し、その街道を利用しようとする人を他の街道に誘導していた。関所、峠、分岐点、抜け道入口で警備、誘導を行っていたということではないだろうか。その事実を隠すため攻撃兵員1.3万と宣伝したのではないか、信長、信忠一行が若狭湾から海上逃避した後、街道封鎖を解き、それら警備活動を行っていた兵を周山城などに収容し、最終的に1.3万の兵を京都に集結させたと推測した。現在の城は1610年(慶長15年)明智光秀の弟子のような藤堂高虎が縄張りしただけあり、神佛の通り道が考慮されている。(対馬)海神神社と(京都)吉田神社本殿を結んだ神の通り道は天守台のすぐ南を通過している。この線下には京都御所紫宸殿、双ケ岡がある。(舞鶴)籠神社本殿と(奈良)神功皇后陵中心を結んだ神の通り道は本丸を通過している。ブッダガヤの大菩薩寺と南禅寺金地院の方丈・明智門を結んだ線は本丸を通過している。この線下には現在の本能寺がある。南禅寺金地院の庫裏、明智門、そして南禅寺三門はブッダガヤの大菩薩寺を遥拝しているので、亀山城中心部は南禅寺のこれら建屋から遥拝されている。丹波国一之宮出雲大神宮本堂と(羽曳野)応神天皇陵中心を結ぶ神の通り道は天守台を通過している。郡山城天守と同じく亀山城天守に応神天皇を権現させようとしたと読める。藤堂高虎は郡山城の築城で明智光秀から城作りを学んだ。その通りに神の通り道を利用し清々しく輝く城を作り、応神天皇を権現させた天守を作ったと読んだ。亀山城天守は郡山城天守とは違い明治までそびえていた。もし木造再建すればとても美しいものになると思う。城そのものは豊富な城攻め経験のある藤堂高虎らしく、城に籠り守るのではなく、城内に敵を誘い込み、城内を野戦場にして敵殲滅し、保津川をせき止め、田に水を流し込み巨大な掘を作り、敵の動きを止めるようにしている。明治政府は天守があった亀山城を民間に売却した。天守は取り壊され、石垣は鉄道建設に転用された。その後、城を買収した大本教団は石垣の修復をするも、昭和の宗教弾圧で爆破された。戦後、大本教団は石垣を再度修復した。明智光秀が今も亀岡市民に慕われているからなのか、神佛のご加護によるものか、2度も復元された。貴重な歴史証拠である亀山城には背高く育つアカマツが多く美しい。