二条城(2)二の丸庭園

庭上空で多くの神佛の通り道が交差している。豪快に水を流す瀧があり、黒書院側から池に迫り出す半島があり、池中央に蓬莱島、その北側に亀島、南側に鶴島がある。池対岸には船が出入りする港を連想させる石垣が三つある。一つは大型船が出入りするような開口部が広い港口。二つは小舟が出入りするような石橋が架かった港口。小堀遠州は遥拝先の風景を表現するので、二条城が遥拝する釜山の港を表現したはずだ。池は浅く波が立ちにくいので穏やかだが、池底が濃い緑色の粘土なので日本海、対岸は朝鮮半島、瀧は北朝鮮の金剛山の瀧、瀧水が日本海に流れ込んでいる。池対岸の石垣の色は少し青く、石垣や護岸石で固めた築山面は苔面、護岸石は角が尖っておらず優しい。苔面と優しい石の相乗効果で柔らかな風景となっている。それに対し本州を表現した池手前は芝面と苔面、対馬列島を表現した三つの島は苔面。池手前と島々の石は主に灰黒を強調した頭を尖らせた石なので、緊張した風景になっている。釜山港が穏やかな風景であるのに対し、本州、対馬は険しく対岸を見据えている。池には船を模した舟石が置かれている。釜山港を凝視し、何時でも行動を起こせる表現となっている。1675年(延宝6年)建設の草梁倭館(面積約10万坪)は対馬-釜山-漢城-北京を結ぶ貿易・外交拠点で、清朝・李氏朝鮮情報を収集していた。幕府は清朝・李氏朝鮮と良好な関係を維持するため、対馬人のみで草梁倭館を経営させ、売春禁止した。庭では釜山港と本土・対馬の雰囲気を大きく変えることで、草梁倭館のある釜山は外国だと見て取れるようにした。この庭は南禅寺方丈前庭園と連続性があり、一般の日本人は釜山港に渡れないことを暗示している。8代将軍 徳川吉宗の在職(1716年~1745年)中、二の丸庭園の一部を改造しソテツ15本を植えた。現在、ソテツは1株だけで、多くのソテツはサクラ、クロマツなどに植え替えられた。この時の改造は1719年(享保4年)の朝鮮通信使に見せるため、或いは1735年(清朝第6代)乾隆帝が皇帝に就任し、清朝は最盛期を迎えたことに関係しているのではないだろうか。異国情緒を醸し出す港風情は徳川幕府、清朝、李氏朝鮮の仲の良さを感じさせるので、それを消し去りたかった明治政府は異国的なソテツを抜き、庭周囲にこの庭に似つかない巨木となるクスノキを植え、借景の本丸、天守台を隠したのだろう。源氏の聖地「伊吹山」頂上を起点に、比叡山延暦寺根本中堂まで伸ばした線を更に伸ばすと、延暦寺三重塔-京都御苑-二の丸御殿大広間を通過し、釜山港を模した部分に到達する。二の丸御殿大広間の上段に座る将軍が釜山港を模した部分を眺めることは、伊吹山頂上から比叡山を遥拝する人々の祈りを背にして眺めることになる。大広間に座る将軍席から天守は(対馬)海神神社の遥拝目印になる。天守を神々しく迫って来るように見せるため、蓬莱島を亀島、鶴島と比べようもないほど大きくし、荒々しい石組としたのだろう。石々の緊張感は清朝・李氏朝鮮に対する心構えの現れだ。大広間側から見た亀島の先の対岸には三尊石石組、瀧石組みがある。瀧口近く、上島に架かる石橋は小さく、瀧周辺の石、亀島に置かれた石も相対的に小さい。大きな蓬莱島に大きな石を置くことで、石橋、三尊石が遠くにあるように感じさせている。蓬莱島の荒々しい石組とは違い、三尊石は薄い石で、その平らな面を大広間に向けることで、迫りくるように見せている。黒書院側から見た蓬莱島、そして小さな鶴島の先、港口に架かる左奥の石橋を大きくし、距離が近い亀島に架かる石橋を小さなものにして、逆対比効果(逆遠近効果)を起こさせ、鑑賞者の心の中で庭が膨らむようにしている。黒書院を超えたところから見ると亀島に架かる石橋より蓬莱島に架かる石橋が細長く、左奥の港口に架かる石橋が太いので、太い石橋が鑑賞者に迫って来る。京都御所、仙洞御所とは違い曲流や黒玉石を使った洲浜がない。上田宗箇の石組みのように石がダンスを踊っているということもない。清朝・李氏朝鮮との友好関係を表現する以外のものを持ち込んでいない。瀧部分の三尊石を含め厚みがあまりない石をあちこちに立てている。厚みが薄い欧州墓碑のような形の石をあちこちに立てることで神々の通り道と風の通りを表現している。欧州墓石からヒントを得て、佛を宿らせる石としたのかもしれない。それに対し神の権現石はどっしりとしている。庭を易経に当てはめると多くの大名庭園と同様に「42風雷益(ふうらいえき)益する道」を表現している。損が損に終わることはない、将軍自ら損をして下の者を得させ、下の者を豊かにすることで国を存続発展させる。将軍は善いことには風の如く従い、過ちがあれば決断を持ってためらいなく改める。将軍の心構えを画いた庭だ。