東福寺 即宗院

(京都)法観寺八坂の塔と(奈良)當麻寺を結ぶ佛の通り道が大谷本廟境内-智積院境内-当院-伏見稲荷大社境内通過している。書院は南北のこれら聖地を遥拝している。書院は西の(韓国)蔚山倭城を遥拝している。当院隣の龍吟庵は東莱倭城を、天得院は釜山鎮城を、東福寺伽藍は釜山鎮城・東莱倭城・草梁倭館跡を、このように東福寺全体で釜山方面の倭城を遥拝している。南禅寺伽藍の西への遥拝先も釜山鎮城・東莱倭城・草梁倭館跡などであることから、徳川幕府は南禅寺、東福寺など臨済宗寺院に漢文を習得し朝鮮修文職を務めることができる人材育成を任せていたことが読み取れる。当院の歴史を調べると九条兼実(1149年~1207年)が関白失脚後、九条家御所に(山荘)月輪殿を営み作庭した。兼実の孫、九条道家(1193年~1253年)が当地に東福寺を建立することを発願。当地は東福寺に組み込まれた。1387年(元中4年)島津氏久(1328年~1387年)を菩提するため当院が開山された。その後、応仁の乱を起点とする戦国時代に東福寺は荒廃、1569年(永禄12年)当院も焼失。1613年(慶長18年)島津家によって再興された。当院は島津家の京都菩提寺院としての長い歴史を持ち、幕末、西郷隆盛は当院で幕府転覆策を謀った。薩摩軍は戊辰戦争において当院裏山に砲列を敷いた。裏山には戊辰戦争で戦死した薩摩軍人524柱の慰霊碑がある。歴史ある庭だが荒廃と改修を繰り返したためか、いろいろな時代の庭が混在している。全体的に見れば近代に復元された月輪殿時代の枯瀧を伝って落下した水にて池が作られたようになっている。池に半島状に突き出した築山に社があり、池の対岸に権現石があり、サークル状に置かれた神の着座石組がある。多くの神の通り道の下にある庭なのでので、神を身近に感じさせる。島津家菩提寺院だったのでカエデとドウダンツツジの紅葉、センリョー、マンリョー、ナンテンの赤い実、ツバキの赤い花などで戦場に流れる血を連想させるようになっている。サザンカの白い花が赤い花と実を引き立てている。クロマツ、アカマツが庭を豪華にしている。島津家が整備した神と交わるための庭が、近代の復元で捉えにくくなっている。この捉えにくさが現代日本を表現しているようにも見える。