相国寺方丈表庭園

熊野本宮大社が発する光を反射する白砂庭

白砂の先には白壁塀と方丈勅使門が、白壁塀の上には法堂の白壁と大きな屋根が、マツの幹と幹との間には浴室の白壁が、それらの屋根と相国寺を取り囲む樹木の上に青空が見える。庭奥側にはコケ面にマツを育てている。コケ面を地、白砂面を天として陰陽の対極をシンプルに描いた庭だ。白砂面には一筋の通路以外、何もない。白砂面に波模様はなく太陽光と月光とを単に反射する大きなスクリーンとしてのみ作られている。天空を映し出す鏡として、天の声を素直に反響させるために通路両側に縦線を、更にその両側に横線を引いている。江戸庭園で白砂庭を持つ寺院は皆格式高いので、幕府と意見交換できる立場にあったと推測するが、この白砂庭は白壁塀、白壁の法堂などの建屋に囲まれた閉鎖空間の中にあって、空も広く見せるので特別なものに見える。単に天空の表情を素直に見せる、天の声を素直に聞かせるだけではなく何か大きな意味を持たせている。易経の観点から見ると白砂面を下卦の天に見立て、上卦に天(空)、沢(突然のにわか雨をもたらす黒雲)、火(太陽)、雷、風、水(雲)、山(伽藍)、地(コケ面)を当てはめ、それぞれの象意を読み取ることができる。天空が晴天であれば「1乾為天」天は高くして宏大である。天の運行は健全にして尽きることがなく、何物をも支配する力があることを見せつける。熱い夏日に照らされた白砂庭が発する熱気は上空に押し上げられて行く。強大な力で上昇する陽の気は沢のようなにわか雨をもたらす黒雲を発生させ「43沢天夬(カイ)」自らが強すぎると止めることのできない土壇場に追い込まれることを想像させる。天空に太陽がギラギラと輝いている時は「14火天大有」今、盛隆の極みにあることを知り、まもなく衰退が始まることを予想する。天を写す白砂の上に轟く雷は「34雷天大壮」上昇力がこれ以上、上昇できないいっぱいの所に到った。何もかもが上手く行っているのに雷を落とすような発言が多くなった人は自省し、勢い余って事故を起こす前にとどまるべし、一旦、隠遁して心身を養い再出馬しろと忠告する。白砂の天上に吹く風は「9風天小畜」従順な風が剛健な天を押えて付けてはいるが、従順な者が剛健な者を押え続けることなどできない。恵みの雨が降る時が来るのを待つように、今は修養に励めと教える。白砂が表現する天の上に雲が漂うと「5水天需」雨来るのを待つ。妄進せずよく待つ者こそ、よき成果をあげることができる。待つ時は飲食宴楽して英気を養ってこそ堅実な歩みを進み得ると教える。白砂を取り囲む法堂、樹木群を山と見なすと「26山天大畜」山が天を包み込んでいる。至誠・真心の心で大いなるものを畜えるべきことを諭す。白砂庭の奥に広がるコケ庭を地として見ると「11地天泰」庭が落ち着いて見える。天地交流して安泰なように、聖なる教えが体に浸透した姿を庭が見せる。白砂庭を極限のシンプル美とした結果、1807年(文化4年)当時円熟していた儒教の教えが庭に刷り込まれたのだろう。貴船神社の少し上流、貴船川の源泉あたりと熊野本宮大社大斎原とを線で結ぶと、その線は相国寺の方丈(方丈表裏庭園を含む)、方丈表庭園の勅使門、法堂、勅使門を通過し、京都御所紫宸殿など御所の中心建屋を通過し、渉成園の大谷家邸宅を通過する。御所と渉成園の建屋はこぞって熊野本宮大社大斎原に向き、相国寺の方丈前勅使門、勅使門、総門も熊野本宮大社大斎原に向いているが、相国寺の開山堂、庫裏、方丈、法堂、方丈池などは北の若狭彦神社(上社)を遥拝する方向に向いている。もし開山堂、方丈、法堂などを大斎原に向けると御所に対して不敬に当たるので、角度を3~4°ずらせ北の若狭彦神社を遥拝するようにしたものだろう。相国寺塔頭、長得院、大光明院、養源院、及び浴室、経蔵は大斎原に向けて建てられているが遥拝線は御所から外れている。ちなみに法堂・方丈と若狭彦神社(上社)とを結んだ線は京都府立植物園(元、上賀茂神社境外末社、半木神社とその鎮守の森)、貴船神社境内(奥宮のすぐ東側)を通過する。尚、相国寺の伽藍、南に大斎原を北に若狭彦神社(上社)を遥拝するものすべて東方向には久能山東照宮を遥拝している。現在は周囲のビルに囲まれているので、境内から東山の一部しか望めないが、周囲にビルが建つ以前の伽藍は東山など周囲の風景を借景とし、風景と調和したものだったはずだ。これら遥拝線を読み解くと日本人の心の中心地は熊野本宮大社大斎原、それを遥拝する御所の紫宸殿の白砂庭と、御所の北側に控える当方丈の白砂面が輝いて当然のこと。両白砂庭は大斎原が放つ神々しい光を反射し建屋内部に取り込むようシンプルに設計されたものだ。シンプルな設計となった結果、天を下卦とする易の象意を容易に読み取れるようになったと推測した。