建仁寺 両足院

古田織部の美を画いた庭

両足院は建仁寺法堂の東側にあり、庫裡、毘沙門天堂は建仁寺伽藍と同じく南南西の金剛山国見城址遥拝方向に建てられている。当院の基本的な地割は金剛山国見城址を遥拝する方向なので、本来、方丈と大書院は金剛山国見城址に向け建てられていたはずなのに、少しはずれている。方丈は1850年頃の再建なので使い勝手を優先したのだろうか。或いは故意に向きを少し変えたのだろうか。これにより庭は方丈の遥拝庭でなくなっている。しかし茶室の水月亭、臨池亭が(和歌山)丹生都比売神社にピッタリと向いているので、庭は水月亭、臨池亭の遥拝の為に使われている。1909年(明治42年)境内東北隅に、水月亭の建築が始まり薮内流11代竹窓紹智(透月斎1865年~1942年)が庭修理を指導した。次いで1925年(昭和元年)高台寺にあった茶室、臨池亭が水月亭の東側に移築された。水月亭、臨池亭が共に丹生都比売神社を遥拝しているので、茶室は「にうつひめ」ら丹生都比売神社の神々を、庭を通して招き入れるようになっている。方丈から庭に下りた招待客は庭の築山、池を眺めながら、庭石に見つめられながら茶室に至る。女神「にうつひめ」を招き入れる向きのせいか、庭がスッキリとまとめられているせいか、女性的なこまやかさ、気配りに溢れている。気のせいか男性客より女性客の方が庭を楽しんでいるように見受けられる。ガイドが「当庭園は江戸中期に藪内流5代目、竹心紹智(不住斎1678年~1745年)が作った。茶室「水月亭」は「如庵(じょあん)」の写しと言われているが、厳密な写しではない。庭に立っているお坊さんのように見える石。これは建仁寺を拝んでいる。池は鶴が羽を広げた形となっており、池の南端には亀頭石があり築山にて亀を表現している。庭で蓬莱が表現させている」と説明された。有楽苑で見学した織田有楽斎(1547年~1622年)作の茶室「如庵」オリジナルと、「水月亭」を比べると窓から入る光の変化を楽しむ点で一致しているが、確かに躙り口の位置が異なっている。こちらの茶室には南側に池が有り、池に反射した光の変化も茶室内に取り込めるようになっている。初夏の月が出た夜、客は躙り口から出ると、ハンゲショウで真っ白となった庭に驚き、池に映った月と、月の光を反射する白系の石々にエネルギーを感じるようになっている。カエデなど落葉樹が葉を落とした冬はハンゲショウが刈り取られているので、庭の白色系の石のみが浮いたように見えることだろう。茶室前の庭はシンプルで、茶室の南に細長い池、池の東が築山、そして飛石。茶会に不必要なものを排除している。三尊石、枯瀧などの石組みを排除し、光の演出を遮る中途半端な高さの木を排除している。藪内家初代、剣仲紹智(藪中斎1536年~1627年)は千利休の媒酌で古田織部の妹を娶ったと伝わる。そのことから庭に立つお坊さんのような中心石は古田織部がモデルだと読んだ。中心石には人の心に残る深い切れ込みがあり、古田織部の茶器に似、自害とも通じる。中心石周辺の石は古田織部の息子たちだろう。徳川幕府は古田織部の血流を絶ち、居城を跡形なく撤去した。古田織部が作った露地が京都にたくさんあったはずだが聞いたことがない。古田織部風の庭と評されている(堺市)南宗寺の庭に古田織部の強烈な個性的表現はない。それに対しこの庭の中心石などの石々は頂点を天に向けている石が多く、白く浮かび上がるようになっている。潔く去った古田織部一族を表現したように見える。池周囲にこれでもかと言うほどに植えられた多年草の半夏生(ハンゲショウ)の葉が、初夏に真っ白に変色し、庭を明るくする。風が吹けばハンゲショウが揺れ、池の水面が揺れ、茶室の障子に映る光が揺れる。真夏、ハンゲショウの葉が緑色となれば庭は緑一色となる。冬はハンゲショウの茎から上、すべてが刈り取られ、風景が一変する。季節ごと庭の表情を大きく変化させている。この変化の美は古田織部の美の世界だと思う。(滋賀県長浜市)孤篷庵は小堀遠州が作庭した訳ではないが、小堀遠州の心を表現している。この庭も古田織部が作庭した訳ではないが、古田織部の精神を表現したと感じる。庭を詳細に見ると、茶室周囲にはモッコク、イヌマキ、カエデ、マツ、クチナシ、ヤブツバキなどを低木で育て、茶室を包み込むようにタラヨウを大きく育てている。茶室周辺には品の良い石灯籠が数本立てられている。書院側から庭を見ると池の手前に黒っぽい色の石を置き、池をより深く見せ、築山を高く見せていることに気が付く。サツキの丸刈りが黒っぽい石を包み込むように配されている。築山上には天に頂点を向ける白っぽい石々を配し緑に映えるようにしている。築山のサツキの大刈込はゆるやかなウエーブがかけられている。この庭の標高は約40m、庭の東、約1.29km先の東山山頂公園の標高は約220mなので、作庭当時は東山を借景としていて、サツキのウエーブは東山の形と重ね合わせていたのだろう。借景庭だったころ白っぽい石々はもっと目立っていたはずだ。ウエーブをかけられたサツキの大刈込のすぐ背後にはキンモクセイ、モッコク、カエデ、ツバキ、マツなどがあり、その背後には大木となった樹木があるが、作庭当初に大木はなかったはずだ。茶室から方丈へと伸びる飛び石が大きく蛇行している。飛び石をつたって歩くと庭の表情が大きく変化して見えるのだろう。方丈の東北に中門(木戸)と竹垣が設けてあり、方丈前庭園と区切っている。方丈の東側には石塔を置いた築山、石組みをした築山があり、全面苔面の江戸庭園特有の庭となっている。こちらも作庭当初は東山を借景とした庭だったのだろう。多数のマツを小さく育て、サツキの丸刈りを小ぶりにし、アオキを地面に張り付けるように育てている。現在は庭背後のシラカシなどが大木となっているので、箱庭的な庭となっているが、借景庭園だったころはシラカシなどなく、男性的なダイナミックな庭だったはずだ。これらシンプルな庭が東山を借景とした頃、今以上に清々しく古田織部の美の世界を表現していたことだろう。