金剛院(舞鶴市)

礼拝石に正座し擬人化された須弥山石(庭中心石)を拝む庭で、築山頂上の須弥山石(庭中心石)は多くの擬人化された石を従えている。築山と礼拝石の間に心字池のような池があり、池の中に船のような形をした亀島があり、池の手前にサツキの大刈込があるので、礼拝石に正座する人は池にさえ近づけない、とても築山には行けないように作られている。礼拝石に正座する人と擬人化された人々(築山上の石々)は池、亀島、サツキの大刈込で区切られ、それぞれ別の世界に住む人であることを暗示している。庭の右奥、池の端には鶴石があり、花咲くような、歓喜の声を上げているような鶴島風石組となっている。鶴島風石組と礼拝石との間を遮る細い水路があるが、一見すると同一芝面上にあるように見える。近くに行ってみると鶴島風石組は築山から半島状に伸びて来た地面上にあり、石組の外側には掘り込みがある。よって擬人化された鶴島風石組の人々は須弥山にいる人々と関係を持つが、礼拝石に正座する人に近いところにいることを画いている。山を借景とする庭だが、庭を血染めにするカエデを多く植えている。春は若葉、夏は池による清涼感、秋は紅葉した葉が池と築山を血染め、落葉した冬は借景山を楽しめるようにメリハリが付けられている。幾多の戦場で戦い、大虐殺に手を染め、謀略を行った細川藤孝の作品なので、供養の意味を刷り込んだ秋の風景が最も美しいのだろう。礼拝石は庭中心石を遥拝するために置かれているが、よく見ると礼拝石の平らな面、石目が庭中心石に向かっておらず、庭中心石の右下、池の対岸の水際にある大きな石に向かっている。その大きな石がカエデの下にありグーグル航空地図で正確な位置確認ができないが、礼拝石から対岸の大きな石を見て、その先に出雲大社、もしくは(韓国)倭城があるような位置関係に見える。次に歴史から作庭時期を推測してみた。作庭者の細川藤孝は1582年(天正10年2月~3月)一色義定と甲州征伐に参戦、その直後(天正10年6月)本能寺の変を迎えるが、親戚であり兄弟のように仲良かった明智光秀に加担せず、剃髪し隠居と称し田辺城(舞鶴城)に入った。藤孝が田辺城を居城としたのは1582年(天正10年)~1600年(慶長5年7~9月)で、この期間に作庭したことになるが、藤孝は(光秀との付き合いと同様)兄弟の如く千利休と交流していたのに庭は飛び石がある露地風でなく、千利休が好んだツバキはあるも小さな石が見当たらない。よって庭は千利休が消えた1591年(天正19年2月以降)~1600年(7月~9月)田辺城の戦い前までの間(1591年~1599年)に作ったと推測した。細川藤孝は歴戦武将で、信長軍の大虐殺戦に参加し、親戚の一色義定の謀殺に関わっている。光秀、千利休と深い関係にあり、両名と協力し、信長・家康のために仕事をした。それらのことから庭中心石(須弥山石)は信長(或いは信忠)、池の対岸にある大きな石は光秀と千利休の両名を重ね、鶴石は家康を表現したと推測した。亀島に武将らしい石を置いていないので単に船を表現したと見た。庭中心石に従う多くの石々は信長・信忠と共に消えた忠臣達で、藤孝はこの礼拝石に座り、船に乗って大陸に渡った信長・信忠らに祈りを捧げ、(光秀こと)千利休に祈りを捧げ、上司の家康と三河武士団に敬意を表したと読んだ。これまで幾度も書いたが、信長・信忠を地下に潜らせるための本能寺の変にて、信長・信忠・森成利(蘭丸)、森坊丸、森力丸・(信長弟)長利・(信忠弟)勝長・坂井越中守(他にも同行者がいるのかも知れないが、本能寺の変で不自然な消え方をした人たち以上8名)は日本海を超え中国東北部の瀋陽付近、建州女真の地域に向かい、到着前後にヌルハチを殺害し信忠はヌルハチに背乗り、李成梁に多額の賄賂を渡し明軍にヌルハチ一族を虐殺させ、信長・長利・勝長は愛新覚羅氏に、森三兄弟と坂井は貴族になりすまし、奮闘して信忠の子、ホンタイジに清朝樹立をさせ初代皇帝に就任させたと推測した。ヌルハチが清の前身、後金国を成立させたのは大阪夏の陣の翌年1616年で日本歴史と連動している。文禄・慶長の役(1592年~1593年、1597年~1598年)は朝鮮半島に明の大軍をくぎ付けにすることで、ヌルハチの女真族統一事業を助けるために行われた。庭はヌルハチ(信忠)の戦勝祈願を行うために作ったと読んだ。(光秀こと)千利休を表現する石が池の向こう岸にあるので、千利休は聚楽屋敷で地下に潜った後、船に乗り朝鮮半島に渡り、釜山の倭城を拠点として諜報活動をしたと読め、(光秀こと)千利休の諜報活動の成功祈願も行っていたと読んだ。もう一人の時代の司会者、天海が無量寿寺北院の住職となり歴史の表舞台に出てくるのは秀吉が亡くなり慶長の役が終わった翌年1599年(慶長4年)なので、明智光秀-千利休-(釜山倭城を拠点として諜報活動を行っていた人物)-天海はつながる。これら秘密を細川藤孝は知っていたはずだが素知らぬふりを通した。つまりは細川藤孝も本能寺の変の実行者の一人であり、山崎の戦いで突然歴史の表舞台に出て来た千利休の正体を素知らぬふりして付き合い、千利休と手を携え光秀が目指した天下布武(天皇と将軍を中心とした日本統一)完成のため懸命に働いた。信長・信忠・光秀・千利休・家康・藤孝・天海は戦国時代を終わらせ、東南アジアに長期平和をもたらす目的で結成された秘密結社の構成員だったのではないだろうか。彼らを動かしていたトップは武田信玄だと思うが、これについては未だ証拠をつかめていない。