北畠氏館跡庭園(続)

織田信長は三瀬の変、その直後の霧山城(多気御所)の戦いで北畠具教一族、北畠家に仕えていた多くの家臣達を殺害したが、(北畠具教の実弟)木造具政、(北畠氏血流)田丸直昌の両名は変以降も織田信雄に仕えているので、北畠氏を消滅させた訳ではない。信長の命令通り田丸城で虐殺事変を実行した信雄はその後、遠征に継ぐ遠征を繰り返し、遠征逃れの第一次天正伊賀の乱を発動して大敗し信長に大叱責を受けた。第二次天正伊賀の乱で総大将(伊賀人虐殺実行最高責任者)となる。本能寺の変の後、織田家を継承した信忠の子の後見役となり100万石の大大名になるも、1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いで、秀吉と家康に嵌められ、戦後、伊勢、伊賀を失う。秀吉の下で働くも一度は残った領地すべてを取り上げられ流罪までされた。大阪夏の陣の後、家康から5万石が与えられた。比較的長い晩年は京都で暮らした。信長供養塔作りなどの織田家繁栄を願う活動をされたことだろう。本能寺の変の真実を知ることはなかったと思う。高い文化力あふれる当庭園はスギ、ヒノキで封印されている。北畠氏の高い教養力、文化力、多気御所が文化発信地だったことを今に伝えている。三瀬の変を思いながら、或いは細川高国の時代を思いながら庭を見ていると、先端を天に向けている石々が烏帽子を被った武士、貴族に見えてくる。儀式に参加する高貴な方々が築山や池の前に座っているように見えてくる。京都で執り行われた儀式情景を庭で表現し、その情景を走馬灯のように見せる趣旨のようにも感じてくる。大木のスギ、ヒノキ、その他常緑樹が天の大部分を覆っている。山裾が築山につながり、山水が米字池に注がれている。山に囲まれ、巨木の陰の中に池があるので、庭全体が体を、池が心に見え、鑑賞者は自らの体の中に入いり、自らの心と対話しているようにも感じる。500年前このような庭が主流だったのだろう。歴史ある庭の大多数が江戸初期に改築され、スマートな庭に生まれ変わったのに対し、(借景を失ったが)スギ、ヒノキにて封印されたこの庭は細川高国の優雅な感性、築庭能力の高さ、北畠氏の文化力の高さを伝える遺産となっている。三瀬の変が貴重な庭を守った。