楯ヶ崎(たてがさき)

京都御苑内の京都御所池庭、仙洞御所池庭、閑院宮邸跡池庭のそれぞれの水際に黒い玉石が敷き詰められ、渚の風景が表現されている。どこの風景を切り取ってきたものか確かめるため熊野灘に面した(神武天皇東征上陸伝説がある)楯ヶ崎、(坂上田村麻呂が海賊征伐した伝説がある)鬼ヶ城、七里御浜、(イザナミ埋葬伝説がある)花の窟、新宮城を訪れた。七里御浜、王子ヶ浜などの那智黒石は熊野本宮大社大斎原に接する熊野川から流れてきたもの、熊野本宮大社大斎原付近の河原には玉石状の石がびっしりと堆積していたので、七里御浜に堆積した那智黒石は神が住む神聖な地を通過した聖なる石。この浜風景を庭に再現すれば熊野本宮大社、熊野速玉大社が連想でき、庭池で神が遊んでいるように見せることができ、皇族の庭にふさわしくなるので京都御所、仙洞御所、閑院宮邸跡の池の水際に黒玉石を敷いたのだろう。熊野川中流の熊野本宮大社のHPには「八咫烏(やたがらす)が日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。」と説明されている。熊野川下流の熊野速玉大社のHPには「日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。」と説明されている。熊野那智大社社伝では「神武天皇が熊野灘から那智の海岸“にしきうら”に御上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大瀧をさぐり当てられ、神としておまつりになり、その御守護のもと、八咫烏の導きによって無事大和へお入りになった」と説明されている。これらの説明から熊野川河口から離れている楯ヶ崎が果たして東征の上陸地点だったのか疑問に思ってしまう。京都御苑内の庭には楯ヶ崎、那智の瀧の表現がなく、楯ヶ崎、那智の浜に那智黒石が見当たらないので、東征は足利尊氏が京都から九州に西下途し、力を蓄え反撃した程度のことでしかなかったのでは、京都御苑内の池の水際に黒系の玉石を敷き詰めたのは、熊野灘に面した七里御浜、王子ヶ浜を再現しただけだと思ってしまった。楯ヶ崎は庭で画くことが不可能だと思うほど迫力ある。しかしながら大自然を感じる潮岬と違って庭のような美しさがある。比較的穏やかな熊野灘を背景に、大きな海波が岸壁岩を洗い、白波をたて、巨大な波音を轟かせ響かせている。上空の太陽、月、星、雲が刻々と楯ヶ崎の表情を変える。波音、空と海の色、空気、温度、反射光、一刻たりとも同じ状態はなく緊張感あふれている。それとは対照的に仁木島湾を取り囲む半島は緑深く、熊野灘はどこまでも青く、熊野灘に突き出した楯ヶ崎の形状は太古のままだ。刻々と変化する表情と、永く変わらない景色、その大きな対照が心地よい。海鳥が飛ぶ姿を追うのも楽しい。この力強い風景を易経に当てはめると太陽が天空に輝いている「13天火同人(てんかどうじん)志しを同じくする」剛健な天のような人と太陽のように明るく徳のある人が志を同じくすれば大事にあたって力不足ということはない。同じような人同士が志を同じくしてこそ実現できることがあることを語っている。天も雷も人力の遠く及ばぬ自然のまま動くもので「25天雷无妄(てんらいむぼう)天の運行の如く」我々の出生ですら天の摂理の一つと考えられるように、天命に従えば災いはない。しかし人は往々に私欲を出し、天命にそむき災いを受けてしまう。天行を見定め、それに乗るべきことを観せている。整った風景なので「37風火家人(ふうかかじん)家を正す」家を正しくすれば天下が治まる。家が正しければ男は外で正しい行動ができると述べている。風強ければ波高き風景なので「42風雷益(ふうらいえき)益する道」善事には風のように従い、過ちには雷のような決断で改めるべきことを見せている。天候、昼夜の変化で以上4つの顔を持つ。このような表情を持つ庭を作ることは容易ではないが、作庭難度の高い湖畔、海辺を借景とした庭を作るなら参考になると思った。