大峯山龍泉寺

龍泉寺は約1300年前、大峯山麓で泉を発見した役行者が、龍の口と名付け、ほとりに小堂を建て、八大龍王を祀ったことに始まる。山上ヶ岳に入山する修験者は男性のみで、入山直前この泉水で水行、或いは瀧行を行い、身を清める。修験道は泉を起点とし、澤と山で修行を行う宗教なので、水が下からの圧力で湧き出す易経の象意「43澤天夬」長い旅に出ることを決意し外に出た泉水と、修験者の修行への決意は同じだと読み、この卦を起点に卦の変化から修行の過程と修験道の目的を考察することにした。湧き出す水は長い間、山中で眠っていた聖なる地下水、地圧にて意を決したように地表に出て来て渓流となり、水行の池へ流入する。意を決し地表に出たばかりの純粋で、うぶな水にあやかり、修験者は水に入いり、煩悩を流し去り、純粋な心を取り戻し、修行が決行されることを実感し、修行の成功と安全を祈願する。入山すると足元に小さな風が吹いている。しかし上空には偏西風に乗った比較にならない速さで流れる雲がある。大自然に襲われた崖崩れ跡、倒木などがすぐ目に入り、恐ろしい暴風雨、崖崩れ、吹雪、雪崩などを起こす巨大な瀧が上空に控えていることに気づく。山道には不意の危険が潜んでおり、転倒の危険がつきまとう。人力では止めることが出来ない大自然の暴走に出くわすと、機転を利かせ乗り越えるしかない。安全確保された社会環境の中にいると多少バランスを崩しても転倒することなく、背伸びした生き方でバランスを崩しても周囲の人に助けてもらえるが、起伏ある山道では常に五感を張り巡らせ危険回避に努めなければならず、強引な登山など非常識な行動には容赦無きしっぺ返しが待っている。山の急流、瀧などの澤山風景は男女が一目ぼれし体内に電流を走らせるような感動を引き起こす。修験者は虚栄心、欲望を忘れ去り、素直で誠意ある心を取り戻す。澤があり天女が舞っているような綺麗な風景の中、団体行動の修験者には賑わいがあり、楽しい時が過ごせる。心の緩みに気を付け不慮の事故が起きないよう行を続ける。大峯山、八経ヶ岳、弥山からの沢水を集めた天ノ川沿いに天河大弁財天社が、大峯山脈最高峰八経ヶ岳(1915m)から直線約900m北の弥山頂上(1895m)に天河大弁財天社奥宮(弥山神社)があるので女神に守られた山脈となっている。雨の多い大峯山脈の晴天日は潤いある美しい風景が広がる。日本古来の山岳信仰に密教、道教、陰陽道が加わった修験道の修験者は肩を並べ美しい山々を駈け抜ける。行を乱す個人行動は許されないが行は平等だ。地に育てられた樹木が吐き出す新鮮な酸素を吸い続け、人も大地に育てられていることを実感しつつ、大地に伏すように、大地に吸い込まれるようにして歩き続け、岩を這い上ることで更に素直になり、唱える経文が体の中に吸い込まれていく。山は地の上にある。地が老化すれば山は崩れる。人も老化促進の虚飾、虚栄、贅沢が多くなれば孤高の危なさの局面に入り、脆くも崩れ去ってしまう。美しい大地を純真な心で駈け抜けることで大地が持つ若さ、健全さを心と体に取り込む。山の下には巨大エネルギーを持つマグマがあり大陸プレートがあり、地下水が流れている。山は常に山の下に潜む巨大エネルギーを持つ大陸プレートと擦り合わせをしている。山と大陸プレートとの擦り合わせのように、噛み砕くように経を唱え歩き続けることで、経を食するように吸収し、自らの心を養う。山と山の間に沢がある。沢が深いほどに山は高くなる。沢が損すれば山は得する。山中を歩いているので、己の心の中にある物欲、性欲、支配欲、攻撃欲などの実行ができない。自らが得をするための生理欲が実行できないことで自らの体は損をし続けるが、心の中にある雑音、雑念、煩悩は一つ一つ消えて行き心が得をし続ける。歩行を続け疲労と戦っていると、心の中の煩悩を捨てるため組んだ足の疲労と戦う座禅と同じように、突如として足の痛さを感じなくなるように疲労を感じなくなり、心が空になって行き、心の中に小宇宙が形成されて行く。歩けば歩くほどに疲れを感じなくなり自らの欲に振り回されることのない確固たる心が形成されて行く。仮死状態に近くなり危険であるがそれが修行なのだろう。尾根に上がり山頂に向かって進むことは天に向かって進むこと、まわりには宇宙すなわち天があり、そこに太陽が輝いている。太陽は天命によりエネルギーを放出し、万物を生み育てている。太陽が天命に順い、天命に応じる姿を見ながら歩くことで天命に順い、応じる道理が体内に刷り込まれて行く。山頂に到達すると天は更に遠くに去るので、天は高くして宏大だと実感できる。天より強いものはなく、高いものはなく、宏大なものはない。すべての根源で、すべてを動かしている。その天と修行者の心を一体化させ、心と体に天、すなわち大宇宙の巨大な力、動きを取り込み、巨大な力と知恵を得る。陰陽道を取り入れた修験道は男の心と体に天の巨大な力、動き、知恵を取り込むことで男が悟りの境地に達することを目的としている。これ以上の陽の世界がないという天に、陽の気を持つ男を飛び込ませ、天と一体にさせるための修行だ。もし陰の気を持つ女が同行すれば修行の場に陰が混じり修行とならない。大峯山が女人禁制なのは男が持つ陽の気を伸ばし育てるためで、ひいては日本民族の血脈を守るためだ。日本では神となった祖先霊が山に住んでいると信じられているので、女人禁制の大峯山で祖先霊に見守られながら男だけで修行を行い、男を男らしく養う。この伝統修行にて日本民族の血流が守られている。巨大な力と知恵を得た修験者は山を下る。そして日を変え再び泉水で水行を行い、身を清め、聖山の山頂を目指す。修験者は登頂回数が多いほど尊敬される。修行の考察から修験道は団体行動ルールを守ることが要求されるも、各修験者の人格、心は尊重され、修験者の心をとことん追い込むことは無い。よって在家信仰が成り立っている。修験道と比べ日本仏教を見ると、前回の法然寺の記事で書いた通り多くの宗派において、修行中、修行者の人格を否定するほどの厳しい追い込みがされ、心を変革させ、仏法を習得させるようにしている。修行者や宗教学校生徒はその追い込みを乗り越えなければ、その宗派の仏法を身に付けることができない。各宗派共に本山や研修道場での修行、指定学校での学習を求めているので、在家信仰だけでは僧侶になれない。修験道の修行は上述の通り大自然と一体化することで修行者の心を天と同じようにして悟りを得ること。修行システムが佛教と大きく異なるので、修験道は仏教の分派ではなく、密教、道教、陰陽道を取り込んだ祖先霊を崇拝する日本古来の山岳宗教だと思った。