郡山城(大和国)

応神天皇を表現する天守台

峻厳な郡山城を貫く遥拝線(神の通り道)をグーグル地図上で捜して見た。奈良を象徴する若草山、その山頂付近の鶯塚古墳中心と(羽曳野市)誉田御廟山古墳(応神天皇恵我藻伏岡古墳)中心を結ぶと、線は天守台の真ん中を通過した。天守台は若草山山頂からの応神天皇陵遥拝目印となっている。見印とするため天守台の位置を定めたのだろう。鶯塚古墳中心と応神天皇の祖父(羽曳野市)日本武尊白鳥陵を結んだ線は鉄御門跡を通過した。奈良に高層ビルが建つまで若草山山頂から鉄御門櫓は見えていたはずで、鉄御門櫓は大きな(羽曳野市)白鳥陵遥拝目印だったはず。(羽曳野市)日本武尊の子、仲哀天皇の恵我長野西陵中心から天守台に向かって線を引き、更に伸ばすと若草山の端に到達した。神となった日本武尊、応神天皇、仲哀天皇が祈りの山、若草山に向かう途中に郡山城がある。応神天皇の母、神功皇后陵中心ともう一つの小さな(奈良県御所市)日本武尊白鳥陵中心を結んだ線は松蔭門跡付近から北に伸びる池掘の城壁(新宅郭跡、緑郭跡、厩郭跡側の城壁)に沿うように走っている。これらから郡山城は日本武尊、神功皇后、応神天皇を呼び寄せる城だと読んだ。日本武尊、神功皇后は伝説的英雄で、神功皇后は日本の外交方針を決定付ける三韓征伐を行った。応神天皇は八幡神(武神)となり清和源氏-河内源氏(源頼朝、足利氏、今川氏、武田氏、徳川氏)を中心とした武家の信仰中核となった。熊野本宮大社大斎原中心と(福井)若狭国一之宮若狭彦神社上社を結ぶ神の通り道は日本で一番強力な神の通り道だが、それが郡山城を通過している。この線は八坂神社西楼の西10m-泉涌寺即成院-法音院-伏見稲荷東側の山林-伏見城二ノ丸跡-(奈良)秋篠寺十三社-郡山城西御門跡を通過している。郡山城の新宅郭跡、緑郭跡、厩郭跡側の城壁の西側の池掘に対する(石垣)城壁及び天守台西側、本丸の西側(石垣)城壁は北の若狭国一之宮若狭彦神社上社と南の熊野本宮大社大斎原の両方向を遥拝している。池掘り石垣上の渡櫓及び天守台西側の渡櫓は北に若狭彦神社上社と八坂神社を、南に熊野本宮大社大斎原を遥拝していたはずだ。本丸全体の形は北北西の石清水八幡宮を遥拝する形となっている。天守台石垣は石清水八幡宮本殿を遥拝し、東北東の(富士山山頂)浅間大社奥宮久須志神社を遥拝している。天守閣は石清水八幡宮本殿と富士山山頂浅間大社奥宮の遥拝所であった。本丸の白沢橋櫓跡、柳澤神社本殿は北北西に(京都)天龍寺、東北東に(鎌倉)鶴岡八幡宮を遥拝している。白沢橋櫓は天龍寺と鶴岡八幡宮の遥拝所だった。二ノ丸の鳥居と竹林橋櫓跡を結ぶ石垣通路は樹木に覆われグーグル航空地図では向きが判りにくいが、竹林橋櫓跡と同じく若狭彦神社上社もしくは熊野本宮大社大斎原に向けているのではないだろうか。(対馬)海神神社から伸ばして来た線は柳澤文庫の各建屋、本丸南側の城壁ラインに合致する。よって本丸南側の城壁に沿って建てられていた竹林橋櫓、走櫓は西の海神神社を遥拝していた。柳澤神社社務所は(対馬)和多都美神社から伸ばして来た線に一致する。復元された追手門と南に隣接する走櫓は神功皇后陵を遥拝している。(復元)追手向櫓は出雲大社と永平寺を遥拝している。以上をまとめると郡山城は神となった応神天皇、神功皇后、日本武尊を呼び寄せるように作られている。郡山城を通過する神の通り道には主に男性神が通る。神の通り道の中で日本最強の熊野本宮大社大斎原と若狭国一之宮若狭彦神社上社を結ぶ線が郡山城を通過している。その通り道に八坂神社があるので、八坂神社と熊野本宮大社を往復する日本一強い男神だと思うスサノオ神が郡山城を守っている。奈良盆地の中で一番目を引くのは若草山だが、若草山山頂からは奈良盆地が一望でき平城京、各仏教寺院、古墳を直接拝むことができる。その若草山山頂と応神天皇陵を結ぶ神の通り道(遥拝線)上に天守台があり、

天守台は応神天皇陵遥拝目印となっている。更に天守台は八幡神(応神天皇)、神功皇后、宗像三女神を祀る石清水八幡宮に向いている。天守台の形は古墳に似ている。これらから天守台は応神天皇の化身(御神体)として作られたものだったと推測した。現在の城郭の基になった工事は、1581年(天正9年)明智光秀が普請目付となり開始した。明智光秀-千利休-天海僧正は同一人物だった説があるが、たとえ同一人物でなかったとしても三名は徳川時代を作る司会者の役割を行い、時代の流れを作った。天守台が応神天皇の御神体となるように城郭設計したのは明智光秀で、一緒に普請に携わった藤堂高虎が男性的な城に仕上げたのだと思う。若草山山頂付近の鶯塚古墳中心から見て平城京第二次大極殿跡と霊峰生駒山山頂の少し南はブッダガヤ大菩薩寺遥拝目印となっている。唐招提寺金堂は(淡路島)いざなぎ神宮本殿遥拝目印、神功皇后陵の北端は出雲大社本殿遥拝目印、明智光秀はその風景の中に応神天皇陵遥拝目印の郡山城天守台を加え、若草山山頂から奈良盆地を眺め、各聖地に祈りを捧げることを発展させた。天守台は遥拝を基に江戸の都市計画を行った天海僧正と明智光秀が共に遥拝にこだわっていたことの物証だと思う。明治維新後、郡山城は学校や役所として使われた。1880年(明治13年)天守台近くに柳澤神社が創設された。似たような城として(兵庫県)篠山城がある。篠山城は藤堂高虎が縄張りを担当した。篠山城全体で(対馬)海神神社を遥拝している。明治維新後、城内に学校が設けられ、1882年(明治15年)天守台近くに青山神社が創設された。郡山城と篠山城は同じような遥拝先を持ち、近代、同じような歴史をたどっている。藤堂高虎が大改造した(三重県)伊賀上野城も近代、城内に学校が設けられた。伊賀上野城の模擬天守閣は(沖ノ島)宗像大社沖津宮を遥拝している。郡山城、篠山城、伊賀上野城は同じような雰囲気がある。そのようなことから、豊臣秀長の郡山城拡充は明智光秀と藤堂高虎の基本設計に沿ったもので、大坂冬の陣から夏の陣までの間に郡山城の戦いがあったが城が痛めつけられるような戦闘はなく、郡山城天守台は応神天皇の化身(御神体)として江戸時代から現在につなげられていると読んだ。