興聖寺(宇治市)法堂前庭園

禅修行の庭

宇治川沿いの歩道からシンプルな石作りの総門を潜り、北東方向に伸びる興聖寺(こうしょうじ)琴坂参道に入ると、はるか先に龍宮造りの山門が見える。琴坂両側の樹木が空を覆い隠すように成長しているので、ことさら龍宮風の山門の白壁が目立つ。晴れた日は太陽光に晒された山門白壁が薄暗い緑のトンネルの先に輝く。龍宮造りの山門は伽藍が中国の聖地を遥拝していることを暗示している。山門に向かい岩山が迫る琴坂右側水路は段差が多く激しい音を奏でている。左側水路は段差少なく穏やかな音を奏でている。両方の音が参道両側の岩と木々に反響し心地よい音楽となっている。琴坂参道には脇道がなく、山門に向かうか途中で引き返すしかない。宇治川沿いの一本道も総門前から奥は片側が迫りくる岩山、片側が水流の速い宇治川、進むか後退しかない。琴坂参道は少しくびれた二つの直線からなる。総門を潜ってすぐの短い直線部分は総門から約1.5km先の三室戸寺の本堂を指し示している。山門、薬医門、そして伽藍左側部分(開山堂、僧堂、衆寮、経堂など)も三室戸寺の本堂を遥拝している。しかし伽藍右側は明らかに別の所を遥拝している。伽藍の左右で遥拝先を異ならせていることは不自然なので、東北方向に聖地を捜すと、法堂から136km先の越前大野城天守閣に至った。上述した伽藍の左側部分及び、法堂、祠堂殿、天竺堂、大書院、方丈、庫裏、浴司、鐘堂など伽藍全体、そして長い琴坂参道部分が越前大野城を遥拝していた。よって当寺の祈りは越前大野城に届く形となっている。越前大野城と正反対(西南)方向に聖地を求めると、伽藍の向きを約1度、時計針進行方向に回すと羽曳野古墳群に当たった。更にその先には禅寺でよく聞く龍門と同じ名の(和歌山県)龍門山がある。法堂と西南81km先の龍門山山頂を結んだ線は市ノ山古墳(允恭天皇恵我長野北陵)、誉田御廟山古墳(応神天皇恵我藻伏岡古墳)山頂付近、白鳥陵中心付近を通過する。これは法堂本尊(釈迦三尊)、道元禅師の木像目線を羽曳野各古墳の中心、或いは応神天皇陵山頂に当てないために伽藍の向きを配慮した結果なのだろう。(福井県)平泉寺白山神社本殿と(羽曳野市)誉田八幡宮本殿を結んだ線は当寺庫裏の東側を通過する。平泉寺白山神社本殿と(羽曳野市)白鳥陵中央を結んだ線は(琵琶湖)竹生島のすぐ東側、当寺法堂、市ノ山古墳(允恭天皇陵)、二つ塚古墳、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)を通過する。平泉寺白山神社本殿と応神天皇陵の山頂を結んだ線は三室戸寺本堂のすぐ東側、当寺僧堂のすぐ西側を通過する。平泉寺白山神社、応神天皇陵、白鳥陵は広いので日本武尊、応神天皇ら羽曳野古墳の神々と平泉寺白山神社の神々(イザナミ、アメノオシホミミ、オオクニヌシ)が往来する帯の中に当寺、三室戸寺、竹生島は包まれている。伽藍左右方向の遥拝先を調べると、上述した伽藍前後方向と同じような現象があった。伽藍左側(開山堂、僧堂、衆寮、経堂など)は東南東の伊賀上野城天守閣を遥拝しているが、伽藍右側は日本国内のいずれの聖地にも至らなかった。そこで中国に遥拝先を求めると1702km西北の清東陵の孝陵に至った。孝陵を起点として当寺に向けて線を伸ばすと伽藍すべてが孝陵を遥拝する方向に建てられていた。当然ながら伽藍の左右をつなぐ廊下、参道も孝陵から伸ばして来た線に合致した。孝陵は清朝第三代皇帝(北京紫禁城に最初に清朝皇帝として入った)順治帝の陵墓。庫裏から庭を介し僧堂を見ることは孝陵を遥拝すること、庫裏側から僧堂側に向いて廊下、参道を渡ることは孝陵に向かって進むことに通じている。このことから伽藍が東南の伊賀上野城を遥拝しているのは補助的なものだと読んだ。尚、孝陵と伊賀上野城天守閣を結んだ線は当寺の北側の山を通過する。孝陵と当寺法堂を結んだ線は鳥取藩主池田家墓所に隣接する清源寺(黄檗宗)跡を通過した。1649年(慶安2年)淀城主の永井尚政が現在地に当寺を復興したが、淀藩は朝鮮通信使接待藩の一つだった。伽藍全体を西北の順治帝の孝陵を遥拝させたのは朝鮮通信使に見せるためだったのではなかったか。中国皇帝陵を遥拝する伽藍とその入り口の龍宮門にて朝鮮通信使をもてなし、徳川幕府が清朝を尊重している様子を朝鮮通信使から清朝に伝えてもらうためではなかったのかと推測した。当寺の対岸には平等院があるので観光地としてもふさわしい。まとめれば、伽藍上下方向では伽藍の一部が三室戸寺を遥拝しているが、伽藍全体は越前大野城を遥拝している。伽藍左右方向では伽藍の一部が伊賀上野城を遥拝しているが、伽藍全体は(中国北京)孝陵を遥拝している。まるで禅の世界のように一部だけ見ると本質を見誤るような配置となっている。河内源氏が好む神の通り道に当寺がある。琴坂を抜け山門を潜ると、参道は石畳となり、左右の低い城壁のような石組みが迫ってくる。左石組み上に真っ赤な鎮守杜があり目を惹きつける。鎮守杜の土台は火が燃え上がっているような石組で、真っ赤な鎮守杜と合わせ火が燃え上がる姿になっている。右石組み上には煩悩を去らす鐘堂がある。左右に覚醒させるものが配されているので禅修行の世界に入ったことが実感させられる。石畳参道の正面は薬師門、門の中に法堂が見える。薬師門を潜ると四合院の中庭のような角型の庭に入る。薬医門から見た庭右側には十三重塔が立ち、火の河のような石組があり、峰のような佛の形をした石がいくつか配され、比較的背高いマツが配されている。薬医門から見た庭左側は石を少なく配しているので、右側より表情は穏やかだが、こちらの石の先端も尖り天を指し、龍宮城風の背の高い石塔と背の低いマツが配されている。左右それぞれ共に築山は無く、大きな島状にした平らな庭面にコケを生育している。ほとんどのサツキの丸刈りが未完成の丸刈りとなっていて、石の形と同様に全体的に厳しい雰囲気を出している。庭左右にそれぞれ立つ石塔は、まるで佛が天から降臨することを願っているように見せている。伽藍を包む深い緑を蓄えた山が迫っているが、上空は広く、中庭と天空がつながっているように見える。庭で「二河白道」を表現しているようでもあり、陰陽太極図を表現しているようにも見える。しかし1648年(慶安元年)に徳川期の伏見城から移築された法堂には血天井がある。血天井は伏見城の戦いで自刃した徳川家の家臣を偲ぶものだ。同様の血天井を(京都大原)宝泉院客殿、(京都)源光庵本堂、(京都)正伝寺方丈で拝観したが、共に同じような雰囲気がある。血天井がある本堂から見た庭は徳川家への忠義を感じさせるものであるはずだ。この庭には血天井と連なるような火炎表現の石組があり、その部分は地獄を表現したのだと思う。更に南側の廊下格子窓を通し、真っ赤な火炎表現の鎮守杜、雷のような音を感じさせる鐘堂も見せている。修行僧が地獄表現のある庭に下り丁寧に清掃することで地獄が天国になり、石々が佛となる。二つの石塔が修行僧の修行を応援している。僧堂近くのサツキの丸刈りのみが綺麗な丸刈り剪定となっていて、理想郷が画かれている。一見すると平らな地面に石を置き、植樹しただけの庭だが、尋常ではない厳しい雰囲気が漂っているのは開山堂に道元禅師の御霊骨が納められた等身大の木像が安置され、庭の一部から開山堂が見え、道元禅師の視線を感じる庭だからかも知れない。370年以上にわたり修行僧が手を入れ続けて来た庭だからそのように感じるのかも知れない。一言で表現しきれない、底の見えない奥行きがある道元禅修行の庭だ。