當麻寺中之坊

借景の東塔を庭に取り込んだ、小さな心字池を中心とした庭園。夏場、心字池はスイレンの葉で覆われるので東塔は反映しないが、西南院のように東塔を池に映し、東塔と青空を抱え込むように鑑賞する庭のはずだ。スイレンを除去した冬の方が東塔を映しスケールの大きな庭になると思う。池護岸はゴツゴツとした石で男性的に石組みしているが、心字池や築山の形は女性的なので、まるで立派な骨格、鍛え上げた筋肉を持つ男性が体を女性のようにしなやかに曲げている姿に見える。心字池の西南部分の低い築山から半島状に伸び亀島を作っている部分は枯山水技法を取り入れたような石組みがあり、心に沁みる石組みを目指したように見える。露地(茶室庭園)らしく内庭と外庭を区切る白壁塀を人の背より低く作り、塀の足元に気を配らせることで露地の雰囲気を盛り立てている。飛び石を多用している。色々な形の飛び石をリズミカルに並べるだけでなく、石の色も交互にリズミカルに配している。「御幸の間」から「東塔」方向へと向かう飛び石の色は手前からブルー3個→白1個→黄1個→ブルー4個→黄1個→ブルー2個→黄1個→ブルー2個→黄1個→ブルー1個→黄1個→ブルー2個→→というように、並べ方と色の両方で軽快なリズムを出している。心字池にかかる石橋を越え、白壁の土塀に沿って並べられた飛び石を歩くと、飛び石が白壁塀側に寄せられているので、視覚的に歩きにくくなっている。白壁塀に沿って歩くには、ゆっくりと歩かざるを得ないようになっている。丸刈りなど少なく自然な雰囲気を出している。當麻寺は寺全体でブッダガヤの大菩提寺を遥拝しているためか、沙羅双樹に似た幹を持つサルスベリが多い。築山のサルスベリを見せる庭なので、後西天皇を接待した季節はサルスベリが花咲く季節だったのかも知れない。中之坊書院、庫裏、剃髪堂の各建屋は北に石清水八幡宮本殿を、西に(対馬)和多都美神社、海神神社、(インド)ブッダガヤの大菩提寺に向けて建てられ、それぞれを遥拝している。書院から庭鑑賞することは石清水八幡宮本殿を背にして鑑賞することに通じている。耳成山から見た當麻寺はブッダガヤの大菩提寺遥拝目印となっているので、書院上段の間の上段から下段を見ることは耳成山を意識することに通じ、下段から上段を仰ぐことは上段に座る方の背後に和多都美神社、海神神社、ブッダガヤの大菩提寺を意識することに通じる。(高野山)弘法大師御廟と(滋賀)慈眼堂を線で結ぶと中之坊剃髪堂を通過し、宇治上神社、近江神宮境内を通過した。(淡路島)伊弉諾神宮と(奈良)磯城瑞籬宮跡を線で結ぶと西南院、護念院、中之坊それぞれの書院を通過した。(羽曳野)応神天皇陵中心と檜隈寺跡(於美阿志神社)を線で結ぶと、奥院方丈、本堂、中之坊書院、茶室、庭園(香藕園)を通過した。(対馬)和多都美神社と耳成山口神社を線で結ぶと西塔を通過し、東塔の少し北側、中之坊庭園(香藕園)が借景としている山裾を通過した。このように多数の遥拝線が庭、書院、茶室を通過するので、庭、書院、茶室が神の通り道、神の立ち寄り場所となっている。江戸時代初期、後西天皇(1638年~1685年、在位は1655年頃~1663年)の行幸に際し、片桐石州(1605年~1673年)が庭と書院を現在の姿に改修した。後水尾法皇(1596年~1680)が院政を行っていた時期なので、幕府にとって後西天皇接待は重要行事だった。片桐石州が慈光院を創設したのは1663年(寛文3年)、後西天皇の在任終了年なので、この庭は慈光院より先に作られたものだ。書院襖絵の作者は曽我二直菴(そがにちょくあん;生年不詳~1656年)なので、後西天皇が在位された直後に作庭されたものだと推測した。よって、片桐石州にとって、ここは石州流茶道を後西天皇、ひいては幕府に披露する場であり、書院、茶室、庭の建設に心血を注いだことが読み取れる。片桐石州が徳川家綱の茶道指南役となり、幕府茶道が遠州流から石州流に切り替わったのは1665年(寛文5年)なので、この庭は出世庭であり、茶室は石州流茶道の聖地である。庭には片桐石州(大和小泉藩、第2代藩主)の思想が散りばめられているはずだ。書院鶴の間(後西天皇御幸の間)の前に立って庭園を見ると、慈光院と同様、庭園が借景の東塔を包み込むようデザインされ、その目的に沿って樹木が剪定されている。東塔へ登る為の飛び石と、亭(東屋)が、東塔の指し示す天上の気を庭園へ導く役割を果たしている。小堀遠州が清水寺成就院において灯籠を目印として使い、光の矢が書院の高座に突き刺さるよう設計した技法をうまく取り入れ、露地に降りてきた天の気を、灯籠をつたって茶室へ導き入れるようにしている。灯籠の灯りの窓は茶室方向へ向いている。この構成にて、東塔の先から降臨した天の気や神々が庭を通過し、茶室へと導かれ、茶の湯の中に入り込む。北に若狭彦神社上社、東に伊勢神宮内宮御正殿に向いて建つ東塔には大日如来(だいにちにょらい)がまつってある。大日如来は真言密教の教主であるだけでなく、天照大神と同一視もされている。万物の母親の気が庭園内に充満し、母親の優しさを抹茶に取り込む主旨だとも読める。書院内の「鷺の間」の襖絵も柔らかい。(京都)大徳寺聚光院で見た狩野松栄・狩野永徳、父子による襖絵(障壁画)のような感性を尖らせたような絵ではなく、人を優しく包み込むような襖絵である。奈良はあまり外人受けしないが、日本人にとってはどこか懐かしさを感じる心の故郷なので、奈良にふさわしい襖絵のような気がする。浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗が京都で発生したのも感性鋭い都市ならではのこと。茶道の知識がないので奈良で育まれた石州流茶道がどのような作法なのか知らないが、庭に人を包み込む優しさとリズミカルな流れがあるので、無骨な男が女の感性で気配りをし、優しく人を包み込み、人間関係を育む作法だと思った。