本堂・思惟殿・鐘楼は北に若狭彦神社上社を、南に飛鳥宮跡を、東に豊受大神宮(伊勢神宮外宮)を、西に伊弉諾神宮を遥拝している。北の若狭彦神社上社と飛鳥寺本堂を結ぶ神佛の通り道は(京都)法然院庫裏-宇治陵25-宇治陵9-(奈良)大安寺-村屋坐彌冨都比賣神社境内-三輪神社境内-天香具山を通過するので、建屋方向に飛鳥大仏を拝むことはこれら聖地を拝むことに通じている。東の伊勢神宮外宮正殿と西の伊弉諾神宮本殿を結ぶ神の通り道は飛鳥寺本殿の約80m南を通過するが、両神宮共に境内は広いので神の通り道に包まれている。伊勢神宮外宮御正殿・西宝殿・東宝殿・は伊弉諾神宮を遥拝する方向に建立され、伊弉諾神宮本殿と伊勢神宮内宮御正殿・西宝殿・東宝殿・四丈殿・御門はお互いが遥拝する向きに建てられている。伊弉諾神宮本殿と伊勢神宮内宮御正殿を結ぶ神の通り道は(明日香)文武天皇檜隈安古岡上陵-塚本古墳を通過する。飛鳥大仏の台座は建屋方向となっているが、本体が少し右斜めを向いているのでガイドに伺うと「飛鳥大仏は橘寺を見つめているのではないだろうかと言われている」と説明された。庭は本堂の表と裏にある。飛鳥大仏は後世の補修を受けオリジナル部分が少なくなっているが、同じように江戸時代後期に作られたはずの二つの庭も、どこまでがオリジナルか判りにくくなっている。本堂表の庭石は大半が黒色。勾玉形をした池の水は緑色。護岸石は池を取り囲むように組まれ、コンクリート柱と鎖にて囲まれ、更に植栽、水かけ地蔵、石碑で囲んでいる。石碑が立つ築山も花壇風の石組みにて囲まれている。イヌマキ周りも石で丸く囲んでいる。忠魂碑は力強い石組みの上に立てている。何物も取り囲むことが好きな明治以降の庭へと手が加えられ、池は封印されたかのようだ。ツツジ、カキツバタが咲き、サツキが花を咲かせようとし、クチナシのオレンジ色の実が垂れている。ウメ、サクラ、タイサンボク、アジサイなどがあり次々と花を楽しむことができるが、庭本来の目的が分かりにくくなっている。池と鐘楼との間に借景を意識した大きな石がいくつか置かれているので、本来の庭は本堂から借景山を楽しみつつ、飛鳥寺とゆかりある聖地へ祈りを捧げるためにあったと読んだ。そこでグーグル地図上に線を引いてみた。本堂中心と池の西辺を結んだ線を伸ばすと飛鳥寺の開基、蘇我馬子を埋葬した古墳だと有力視されている石舞台古墳、そして蘇我稲目の墓と推定される都塚古墳に至った。本堂中心と池の東辺を結んだ線を伸ばすと打上古墳近くに到達した。本堂中心と思惟殿中心を結んだ線を伸ばすと天武天皇持統天皇檜隈大内陵に到達した。本堂中心と鐘楼中心を結んだ線を伸ばすと(天武天皇の孫)文武天皇檜隈安古岡上陵に到達した。更に庭から南を望むと南南東約600mに天武天皇が建てた飛鳥浄御原宮跡付近が、南南西950mに橘寺が見える。まとめると池は以前の記事で書いた三輪山を敬うための古墳濠のような役割を持った(奈良)専行院の池のように、蘇我氏古墳群の古墳濠の役割を持たすため、池と鐘楼の間の石々は借景山を大きく見せるためだけでなく神が権現していることを示すためだと判読できた。飛鳥浄御原宮から北を見ると飛鳥寺の本堂屋根が見え、その背後に天香久山が、少し左奥に耳成山が、左に甘樫丘が見える。飛鳥浄御原宮の南には多くの古墳があるので宮と飛鳥寺は神々に囲まれた地にある。石舞台古墳近くの展望台から西北を望むと約850m先の橘寺が見え、その背後に二上山がそびえている。飛鳥浄御原宮と飛鳥寺は樹木で隠れて見えないだけかも知れない。石舞台古墳が作られた頃は古墳の頂上から橘寺、飛鳥浄御原宮、飛鳥寺が目視でき、飛鳥寺本堂からも石舞台古墳が見えていたのではないだろうか。さて石舞台に収められていた棺は三輪山に向いている。石舞台古墳が完成した当時はまだまだ聖山信仰が主流だったのだろう。本堂裏庭は上述の東西方向の神の通り道に沿って作られ、神々に囲まれた地にあるので神々の降臨庭である。爽やかに風が抜ける。あるいは上空の雲の流れを楽しむ庭なので、これ以上に石塔などを持ち込まないほうが良いと思った。本堂の表と裏庭は共に飛鳥時代を懐かしみ、神の世界のなかにいることを実感させる目的で作られているので、明治以降の軍国主義の時代のものを排除し、当初の江戸庭園に戻したほうが良いと思った。