願行寺(吉野)

高野山 宝善院庭園と同じ玉置山と玉石社を画いた庭

洞川へ向かう309号線を南下し吉野川を越えるとすぐに願行寺に到着した。本堂、書院、廊下に囲まれた中庭式の枯山水庭園。築山、石組、玉石面が書院南側に展開している。室町時代末期の庭として伝えられているが、小堀遠州作、高野山最古の宝善院(丹生院)庭園を参考に作庭したように見えた。本堂は戦国時代の焼討ち後、天正年間の再建その後も大修理が加えられている。庭石は江戸時代のシャープな使い方で、石に火災痕がないので、この庭は本堂の大修理の際に宝善院庭園の設計思想を参考に修正したのだと思った。本堂、書院は東に吉野、幣掛(しでかけ)神社を、西に筑前大島、御嶽神社を、南に玉置山・玉石社を、北に島の山古墳を遥拝している。東の幣掛神社と西の筑前大島御嶽神社を線で結ぶと願行寺本堂を通過した。本堂・書院が南に玉置山・玉石社を遥拝しているので築山上の庭中心石は玉置山、庭手前に敷かれた玉石は玉石社の情景を写したと推測できる。庭の中心石は薄く、薄い面が建屋に平行となっている。石の薄い部分を東西方向の遥拝先に向け東西の遥拝先に絡まないようにし、書院から玉置山を遥拝するためだけの目印石としている。東の遥拝先、幣掛神社は大峯山一の行場で速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)を祭っている。西の遥拝先、筑前大島御嶽神社は宗像大社中津宮と参道でつながり古代祭祀が行われていた聖地である。宗像大社中津宮は多岐都比売命(タギツヒメ)を祭っている。本堂は両聖地を結んだ線上にあるので、速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)と多岐都比売命(タギツヒメ)を橋渡しする役目、或いは修験道と古代祭祀を結びつける目的で本堂を建てたのではないだろうか。玉石を敷いた面の隣の苔面に石橋が置かれている。石橋の長手方向を本堂、書院の東西方向と平行にすれば、石橋の両端に島がないので東西の遥拝先を結びつけ橋渡しする意がもたせたのに、なぜ平行に置かなかったのかと思った。庭のデザインとしては石橋を平行に置かない方が良かったのかもしれない。中庭の対角を線で結び、その線を伸ばして見た。庭築山の東南の隅と書院側西北の隅とを線で結び西北方向に伸ばすと応神天皇陵に到達した(A線と呼ぶ)。庭築山の西南の隅と書院側東北の隅とを線で結び東北方向に伸ばすと日光東照宮に到達した(B線と呼ぶ)。A線とB線とは正直角に交わらないが、直角に近い交わり方をしている。庭の西北の隅に薄い石が置かれている。この薄い石は薄い面をA線に沿わせたようにも見え、B線方向に正面に向いているようにも見える。薄い石は頭を垂れるように前傾となっているので、まるで日光東照宮に頭を下げているようである。書院から庭の中心石(目印石)を拝むことで、山岳信仰の霊地である。玉置山・玉石社を遥拝できる構成となっている。そして庭先に敷かれた玉石に玉石社の神が降臨するよう祈る作りとなっている。これは小堀遠州作、高野山 宝善院(丹生院)庭園と同じ作りだ。庭の右端に日光東照宮を遥拝する石を置いている。庭の敷地は応神天皇を意識する形となっているが、特に応神天皇陵を遥拝する目印は見当たらない。建屋が遥拝する東西方向に対しても遥拝を避けるような石の配置となっている。この庭の美しさは遥拝先を玉置山、玉石社、日光東照宮に絞り込んだことにあるのかも知れない。樹木構成も味わい深い、おとなしいものとなっている。多数のツバキを小さく育て、カエデを大きく育て、ウラジロガシ、アオキ、ヤツデ、イヌマキを小さく育て、大きくならないナンテン、マンリョウを配している。この庭の本質は祈りで、石を眺め遥拝先に心を馳せるためのものである。特に葉が少なくなる冬に本質が浮かび上がる。カエデが葉を落とすとツバキが花を咲かせ、アオキ、ナンテン、マンリョーが赤い小さな実を庭にちりばめる。華やかな樹木が無く「わびさび」の精神に満ちている。両端に島の無い石橋が禅問答のように鑑賞者に迫って来る。