城之越遺跡

4世紀末頃に作られ、鎌倉時代(1185年~1333年)まで存在した当遺跡は三つの湧水が一本の川になるところまで復元されている。泉周囲で多数の小さな竪穴住居跡や、掘立柱建物跡が検出され、多くの祭祀行為に用いられた土器や木製品が出土したので、湧水祭祀の場だったと判定されている。当遺跡から北方3㎞の丘陵地に、同時期に作られた全長120mの石山古墳(前方後円墳)があり、南西の低丘陵には6世紀前半までに作られた5基の前方後円墳があり、その他多くの古墳がある。よって当遺跡で古墳時代の祭祀が行われていたことが想像できる。護岸石と玉石で護岸され、湧き水の合流地点に比較的大きな石を貼り、立石している。1991年(平成3年)発掘時、石組みから日本庭園のルーツと言われた。グーグル航空地図で、古墳時代の大型掘立柱建物跡の柱と柱に線を引き西北方向に伸ばすと石清水八幡宮本殿に到達した。南西方向に線を伸ばすと天河大辨財天社禊殿に到達した。古墳時代の建造物も遥拝先を持ち、聖地に向け建てていたことが判った。遥拝先の石清水八幡宮は木津川・宇治川・桂川の合流地点にある。天河大辨財天社のHPには「辨財天は、川の流れの妙なる様を神格化したとされる、古代インドのサラスヴァティー神であり、その本来の神徳は水の神、そして、水せせらぎの如く素直で妙なる弁舌や音楽の神であり、日本の古代より行われてきた水神の信仰とも結びついています。」と説明されている。貴船神社、石清水八幡宮のように水源や合流地点を祭祀の場所にし、鎮守の森を作って水源を守り水害が起きないようにして、水を支配し領土支配したことは想像つく。水源で且つ水信仰聖地を遥拝していた当遺跡になぜ神社建立しなかったのか疑問は感じたが、歴史ある神社の起源について調べて見た。(京都丹後半島)籠神社のHPには『奥の宮である「天の真名井神社」の地における祭祀の始まりは大変古く、少なくとも弥生時代まで遡ることが出来ます。真名井神社の裏には古代の祭祀形態である磐座(いわくら)が鎮座し、その磐座(神が宿る石)で神祀りが行われていました。神を祀る常設の社殿(神社)という形態ができたのは仏教伝来以降とされています。』と説明されている。弥生時代は前数世紀~後3世紀中頃、古墳時代は3世紀中頃~7世紀頃、佛教公伝は6世紀前半、古墳時代の末期558年(祟峻天皇元年)飛鳥寺が創建され佛教の布教の広がりとともに、それまでの自然崇拝が現在につながる神道に生まれ変わったことが判った。(奈良)大神神社のHPには『ご祭神(さいじん)がお山に鎮(しずまる)ために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初(げんしょ)の神祀りの様を今に伝えており、その祭祀(さいし)の姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。』と説明されている。創設時期に言及されていないが、自然崇拝から神道への過渡期の信仰が続いていることが判った。天皇を中心とした現体制をスタートさせたイザナギを祭る(淡路島)伊弉諾神宮のHPには『伊弉諾神宮は、古事記・日本書紀の冒頭にその創祀を記し、神代の昔に伊弉諾大神 が、御子神の天照皇大御神に統合の権限を委ね、淡路の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を構えて余生を過された神宅の旧跡と伝えられてゐます。ここで終焉を迎へた伊弉諾大神は、その宮居の敷地に神陵を築いて祭られました。これを創祀の起源とする最古の神社が伊弉諾神宮です。』と説明されている。創設時期には言及されていないが、イザナギ陵墓を神社としたので、イザナギの実在を証明されている。イザナギとイザナミを祀る(滋賀)多賀大社のHPには『日本最古の書物「古事記」によると、この二柱の大神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、日本の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。』と説明されている。イザナギ、イザナミより以前に出現した神は数少ないので、イザナギは新国家設立後それまでの日本歴史を抹消したことが読み取れる。八坂神社HPに「(八坂神社)創祀については諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。」と説明されている。このように八坂神社のHPにスサノオが新羅国を訪れたことを明確に記載している。新羅の創設年は紀元前57年頃なので、スサノオが牛頭山を訪れたのは紀元前後だと推測できる。このことからスサノオの父、イザナギが国造りをしたのは新羅成立と同時期だと読める。八坂神社HP説明から天皇を中心とした政治体制スタートは明治政府が定めた神武天皇即位紀元、紀元前660年(神武天皇元年)旧暦1月1日ではなく、新羅設立と略同じ時期で、新羅との関係の深さからイザナギとその息子のスサノオは新羅王と親戚もしくは親友関係でイザナギと新羅王が協力し、お互いに国造りしたと読める。縄文時代、弥生時代、日本は高度な技術を持っていたのにイザナギ、イザナミ出現前の歴史記述が抹消されていることもそれを証明している。ウィキペディアで先代天皇の在位期間を調べてみた。生年、没年、在位年が確証されている最先代天皇は第33代、推古天皇(554年~628年、在位期間593年~628年)。平成が終わった2019年から数え推古天皇在位開始593年までは1426年間、93代で割り算すると平均在任期間は15.33年(平均年①)となる。この平均値から算出した神武天皇就位年は2019年-(平均年①15.33×125)=102年となる。生年、没年、在位年に?が付いている最先代天皇は第26代、継体天皇(450年?~531年? 在位期間507年?~531年?)。平成が終わった2019年から数えて継体天皇在位開始507年?までは1512年間、100代で割り算すると平均在任期間は15.12年(平均年②)となる。平均年②から算出した神武天皇就位年は2019年-(平均年②15.12×125)=129年で①と②の差は26年間。平均値①②から算出した神武天皇即位紀元は西暦102年~129年頃となる。日本書紀、古事記によれば神武天皇はスサノオ・アマテラスの五世孫ということなので、上述の①②と計算式を当てはめるとイザナギが帝に就任したのは (125代+5代=)130代、2019年-(平均年①15.33×130)=西暦26年、もしくは2019年-(平均年②15.12×130)=西暦53年でその差は27年間。イザナギ・イザナミの日本統一事業完成は西暦26年~53年頃になる。八坂神社HP記載のスサノオが新羅を訪問した時期に当てはまる。天皇中心の現政治体制のスタートは新羅が国を開いた紀元前57年から83年~110年後というのが真相だろう。日本最古の神社と称する(神戸)生田神社のHPには「西暦201年に神功皇后の三韓外征帰途中の神占による神託で作られたと伝わる」と記載されているが、上記計算式から割り出した14代、仲哀天皇の皇后、神功皇后が三韓征伐を行ったのは西暦317年~340年頃と読める。HPと116年以上の差はあるが三韓征伐が史実だと読めるし、日本統一事業完成は西暦26年~38年頃というのがそれほど外れていないと思う。そして当遺跡が作られたのは三韓征伐が終わった後だと推測がつく。その当時でも聖地に神社を建立する文化は始まっていなかった。ピラミッドと同じ石室を設けた山の形をした古墳崇拝、そして自然崇拝が主流だったことが読める。大型掘立柱建物跡の向きから北極星を利用した緯度、経度の測定能力の高さ、高い測量技術を有していたことも読み取れた。話は飛躍するが、古墳も方角を重視して作られ、極めて高い測量技術を基に整った形に作られている。石室の石組、石の表面加工技術など、現在の技術と大差ない。これらの技術はピラミッド技術が転用されたと考えるのが自然ではないだろうか。イザナギ、イザナミは高度技術を持っ集団の長だったと言うことではないのだろうか。