津城

藤堂高虎が築城した郡山城、宇和島城、大洲城、篠山城、伊賀上野城の見学を経て、いずれも平時において自城を使い軍事演習していた。将兵を鍛えることを考慮して築城したと感じた。1608年(慶長13年)津藩に藤堂高虎(1556年~1630年)が入り、二つの川に挟まれた伊勢湾近くの当城を大改修した。今日、見られるのは本丸と内堀の一部だけなので、かつての威容を偲ぶことができなくなっているが、城地図から他の城と同じように軍事演習を考慮した城だったと思った。海や川に近い城なので、慶長の役における蔚山城(川の合流付近)、順天倭城(浅瀬の湾に面する)、泗川新城(海に面する)の戦を学べる城としたのではないだろうか。藤堂高虎は文禄の役(1592年~1593年)において2,000人を率い水軍参戦した。慶長の役(1597年~1598年)では2,800人を率い漆川梁海戦、南原城の戦い、鳴梁海戦に参戦し大戦果を上げた。水際の戦いを学ばせるために大改修したのではないだろうか。津藩の支城、伊賀上野城は山に囲まれた交通の要所にあり、侵攻して来た敵が攻めざるを得ないようにしている。城内に敵を招き入れ殲滅する形となっている。丘を利用して作られた伊賀上野城は起伏が多く、高い石垣があるので、城内移動、高い石垣を登らせるなどで将兵に城攻めを教えるのに適している。こちら津城は二つの川に挟まれ海に近いので侵攻して来た敵大軍は攻めにくく、大軍をくぎ付けにするのに適している。兵糧が少ない敵に攻めを急がせ城内で撃破する城だ。多くの水上戦を経験した藤堂高虎なので、家臣に水上戦を学習させたい思いもあり広い堀を作ったのではないだろうか。本丸の樹木が茂っているのでグーグル航空地図では判別しにくいが、本丸城壁(石垣)に沿って西北方向へ線を伸ばすと(ソウル)景徳宮、昌徳宮に到達する。正反対方向には(三重県神島)八代神社に到達する。昌徳宮と(神島)八代神社を結んだ線は明智光秀が(丹波)黒井城攻めの際に築いたと伝わる小富士山城跡(陣城跡)、(京都)東寺境内、伏見稲荷大社境内、勧修寺宸殿中心、当城本丸を通過する。景徳宮と八代神社を結んだ線は昌徳宮南の宗廟境内、小富士山城跡、東寺食堂、勧修寺氷室池、当城本丸の天守台近くを通過する。津城から李氏朝鮮の宮殿を拝することは神島を背にして望むことになる。(ソウル)昌徳宮、景徳宮を遥拝する線に直角交叉する線を探すと熊野速玉大社速玉宮と(大日連峰の信仰山)大日岳頂上を結んだ線があった。これらの線は本丸内で略直角に交叉している。これらの線に沿い本丸の縄張りがされている。李氏朝鮮の宮殿を望む方向に作った城なので朝鮮半島での有事に備え、いつでも2個連隊以上の将兵を輸送船に乗せ、朝鮮半島に向かわせることができる臨戦出撃城だったのではないだろうか。朝鮮半島有事に即応できる能力がある津藩に幕府は性質の異なる大きな城2つを持たせ将兵の錬磨に励ませていたと推測した。法隆寺五重塔と久能山東照宮を結ぶと、お城西公園を通過した。熊野本宮大社大斎原と名古屋城天守を結ぶと、お城西公園を通過した。名古屋城と熊野本宮大社は広いので、名古屋城から熊野本宮大社を遥拝することは当城を遥拝することに通じる。津藩は尾張藩と紀州藩に挟まれ、江戸時代を通して改易されなかった。軍事藩だったのだろう。地図から想像した城を易経に当てはめると「51震為雷(しんいらい)驚きと前進」がふさわしい。十分な備えをしていなければ、突発的な災害、事件が発生すると恐怖におののくことになる。備蓄兵糧が無ければ川、海、広い水堀に囲まれた城なので守ことは不可能だ。日々における将兵の鍛錬を怠り備蓄兵糧を蓄えなければ幕府からの出陣要請に即答できず藩取り潰しとなる。大雨、洪水、地震など天災により容易に崩壊する堤防に囲まれ、海に近く台風で大きな被害が出やすい。戦争、動乱、天災だけでなく、藩民の人心が離れると隔離されたような城なので簡単に内部崩壊してしまう。しかしながら、平時から非常事態を想定し、十分な備えをしておけば人災、天災、有事の解決後、笑って過ごせる。そのような爽やかで美しい城だった。有事が過ぎ去った後、笑って過ごすためには、日々、藩主自らおそれかしこまり修養に勤め、反省を欠かさず、常に怠ることなく突発的な有事に対する備えを行わなければならない。藩主、藩士に備えを怠ってはならないことを教え続ける城だったと思う。