現代風浄土庭園
幼い足利義満(1358年~1408年)が第3代将軍(在職1368年~1394年)に就任して間がない頃の1370年(応安3年)、知恩院(浄土宗)12世の誓阿普観は真言宗の當麻寺境内に往生院(現、奥院)を創建し、戦乱から守るべく円光大師(法然)像を知恩院から当院に移し本尊とした。當麻寺境内の他寺院の塀すべてが白壁であるのに対し、奥院の塀は赤色で白の5本横線が入っている。創建から381~394年後の江戸中期宝暦年間(1751年~1764年)から浄土僧も當麻寺本堂(曼荼羅堂)行事に参加できるようになった。奥院の方丈、本堂、阿弥陀堂は北北東の比叡山延暦寺に向き、東南東の神武天皇畝傍山東北陵に向き建てられている。それら建屋は西北西の法然上人生誕地(岡山県久米郡)誕生寺に向かって約3度南を向き、(韓国)洞華寺に向かって約2度南に向いている。本堂、阿弥陀堂参道も神武天皇畝傍山東北陵に向かって伸びているので、本堂、阿弥陀堂で礼拝することは畝傍山東北陵を背に2~3度北側の洞華寺、誕生寺を遥拝することに通じている。(インド)ブッダガヤの大菩提寺と耳成山口神社の約60m南の耳成山中を線で結べば奥院方丈と奥院本堂の間を抜け庭西端の十三重石塔を通過した。誕生寺と當麻寺本堂を線で結ぶと、奥院阿弥陀堂と十三重石塔を通過したので、庭の中心は十三重石塔であり、その付近から流れ出た水はブッダガヤの大菩提寺、或いは法然上人生誕地を源泉とする意味が持たされている。尚、誕生寺と畝傍山口神社跡を線で結ぶと、十三重石塔の南約20m地点、阿弥陀仏南の庭、浄土庭園の南側、奥院楼門の北側をすり抜け、當麻寺本堂、中之坊の剃髪堂と書院を通過した。現代庭園設計は、日本庭園に遥拝があったことを忘れてしまっているので、過去に十三重石塔が建立された意味が見えず
新たに建立した阿弥陀佛石像を庭中心としている。宝池水の源泉方向も不明瞭となっている。宝池周辺は黒灰色の海石を統一使用しているので、浄土宗の浄土雰囲気が出ている。灯籠など目印的なものは置かず、石の角を阿弥陀佛石像に向けることで庭園の気を阿弥陀佛石像に集中させている。樹木を思い切って伐採すれば、二上山を借景とでき、もっと広々とした庭にでき、小堀遠州流の大刈込や丸刈りをリズム良く配せば庭全体をもっとダイナミックに躍動させることができるのに、大刈込はおとなしく、慎み深く整然とした庭となっている。季節ごとの花が目を楽しませるよう花木を配している。十三重石塔に向かう道の飛び石が同じ円形、略同じ大きさ、同じ色で庭に公園の遊歩道を設けたような感じを受けた。現代庭園は石の個性を押えて平等主義を表現し、シラカシを多く使い公園風にまとめる風潮があるので、江戸庭園に比べると物足りなさがある。良かったと思うのは阿弥陀佛石像が南を向いていること。もし背後に誕生寺が控える方向に置かれると阿弥陀佛石像の目線の先に當麻寺本堂が来る。背後にブッダガヤの大菩提寺が控える方向に置くと阿弥陀佛石像の目線の先に耳成山が来るので、當麻寺全体の信仰バランスに変化が生じると思う。遥拝線の中にある庭はパワーを持っているので、その遥拝線の主旨に沿い十三重石塔を見せ庭の中心とする方が良いのかも知れない。