宇陀松山城

1615年(元和元年)大坂夏の陣の直後、徳川家康から織田信雄は大和国宇陀郡、上野国甘楽郡など5万石余りを与えられる。宇陀松山城は小堀遠州らにより調査破却され廃城されたが、少し手を加えれば城として復活できるもので、有事の際に使える城として、名門家権威を守るために陣屋につながる城跡を信雄に引き渡したことが見て取れる。2年後の1617年(元和3年)信雄は(四男)信良に上野国甘楽郡2万石を分地し小幡藩を立藩させる。大和宇陀藩3万1200石は信雄が管理し、1630年(寛永7年)信雄が京都北野邸で亡くなった後、(五男)高長が相続し2代目藩主となる。1694年(元禄7年)幕府の命で当地から丹波柏原に減封転封となり、宇陀の織田家に関する施設が取り壊された。現在、陣屋跡を偲べるものは松山西口関門、少しばかりの城壁、春日神社となっているが、江戸時代の風情ある美しい街道町(城下町)も今に伝わる。信雄が入封した頃に建てられたと推測されている松山西口関門の屋根の大棟に沿い、線を伸ばせば三瀬の変で北畠具教を殺害した三瀬館跡に至る。関門そのものは大棟に直角に開口しておらず3度ほど内側に開口させ、関門を潜ることで安土城に向かうことに通じさせている。当地で埋葬されていた宇陀松山藩主、信雄から信武まで4代の遺骸は安土城内に改葬され4代の宝塔が建立されたので、関門を潜り城下町に入ることは安土城内にある4代の墓所を礼拝することに通じ、関門を大梁に沿って東に見ることは三瀬の変で殺害された北畠具教を偲ぶことに通じている。そのため幕府は関門を取り潰さなかったのではないだろうか。宇陀松山藩陣屋跡にある春日神社の参道、本殿、阿弥陀堂は三瀬の変で信雄が北畠具教親族を殺害した現場、田丸城を遥拝している。参道を本殿に向かい歩き、本殿で祈ることは三瀬の変にて殺害された人々に祈りを捧げることに通じている。織田信雄は三瀬の変で深い心の傷を負い、信雄一族の末代まで北畠氏に祈りを捧げるよう松山西口関門と春日神社を整備したのだろう。信雄が総大将だった第二次天正伊賀の乱では9万人の住人の内、3万人を虐殺した。城跡に登り本丸跡から眺めた山々の風景は素晴らしい。季節変わり速度でゆったりと変化する山々の風景を眺め、心を落ち着かせ伊賀・伊勢に近いこの地で祈りを捧げていたことだろう。信長の長男、信忠は優秀で父の期待通り多くの成果を出した。歴史に記載されていないが、更に父が言う通り、本能寺の変を逃れ、父・(信忠より若い)父の弟・自らの弟・勇敢な忠臣の息子達と共に海を越え建州女真の地に行き、ヌルハチとその親族、貴族になりすまし、女真族をまとめあげ清朝に続く後金を樹立、(父)信長の夢、天下布武を実現させ、親孝行したと私は考える。そして(信長の孫)ホンタイジが清朝初代皇帝に就任した。(長男)信忠に対し(次男)信雄は元服後の少年時代に長島一向一揆・越前一向一揆を相手とした大虐殺に参戦し、次いで、青年時代に三瀬の変を実行し、第二次天正伊賀の乱では総大将を務め自ら大虐殺を行った。信長軍の負の面を背負うような戦役が多い。紀州征伐・石山本願寺戦など遠征が相次いだ直後、父に無断で第一次天正伊賀の乱を発動、大敗北して父から大叱責を受けた。本能寺の変の後、秀吉の挑発に乗り宣戦布告、小牧・長久手の戦いを発動し負け、領地を減らし、次いで秀吉からすべての領地を取り上げられた。秀吉から再度、小さな大名に取り上げられるも、関ケ原の戦いを静観したことで、家康からすべての領地を取り上げられた。これらから愚将評価されているが、最後には大和国宇陀郡、上野国甘楽郡など5万石余りを家康から拝領し大名に復帰、2年後に領地を上野国小幡藩(天童藩)と宇陀松山藩(柏原藩)に分け、信長から受け継いだ血流を絶やさないようにした。信雄の子孫を調べると、信雄の孫、宇陀松山藩3代藩主、長頼は領地の一部3000石を(弟)長政に分け与え旗本にする。(長瀬の弟である長政の長男)信明も(父)長政の遺言に沿い300石を(弟)信清に分け与え旗本にさせる。これが功を奏し(信明の弟、信清の長男)信栄は本家(高家旗本、信明)養子となり本家をつなぐ。(信清の三男)信方は織田長益の系統、柳本藩の養子となり第7代藩主に就任し織田氏血流をつなぐ。(信清の長男)信栄の(次男)信憑は丹波国柏原藩の養子となり第4代藩主に就任、第7代藩主まで血流をつなぐ。更に信栄の(4男)信邦は上野国小幡藩の養子となり7代藩主に就任、信栄の(5男)信浮は上野国小幡藩の養子となり家督を相続、転封先の高畠藩(後の天童藩)初代藩主に就任、このように信雄とその子孫は信長の血流をつないだ。信雄は(父)信長の血流をつなぐ家風を作り親孝行をした。