(三輪山)慶田寺

織田長益は所領3万石を三分割し、(四男)長政に味舌の2,000石を合わせた1万石を分知した。芝村藩(当時の呼び名は戒重藩4代)長清が戒重村から芝村への陣屋移転許可を得るも工事が進まず、(7代)輔宜の代に当寺東の近距離に陣屋が移転し芝村藩となった。現在見ることができる陣屋の姿は、当寺に移築した陣屋惣門と織田小学校の石垣のみ。当寺の織田家墓所は長益のみが無縫塔、(初代)長政、(2代)長定、(3代)長明、(4代)長清、(9代)長宇は共に立派な五輪塔、4代の五輪塔となり、近代に立てられた軍人墓のような墓碑は(最後の藩主の長男12代)長猷。長益となりの(15代)長繁は現代型の形の良い墓標となっていた。五輪塔は共に大名の貫禄がある。墓標はすべて形が良いので、有楽流宗家の品行方正な伝統を感じる。当寺は箸墓古墳(はしはかこふん)から西南380m、大神神社の拝殿から西北西約1.5㎞、耳成山頂上から東北3.7㎞、神の国の中にある。グーグル地図で遥拝線、神佛の通り道を調べると、よくこの地を探し当てたと思うほどすごい遥拝線あり、多くの神佛の通り道があった。本堂と大部分の建屋は東の一点に多くの遥拝先を持ち、その方角に向いている。本堂中心と(神島)八代神社本殿を結ぶと三輪山頂上の高宮神社-長谷寺本堂-(桜井市吉隠)天満神社-室生寺本堂-(松阪市)松尾神社本殿を貫く。建屋の一部は建替時に使い勝手を優先し少し方向を調整したものかも知れないが、寺全体で三輪山頂上高宮神社-長谷寺本堂-(桜井市吉隠)天満神社-室生寺本堂-(松阪市)松尾神社-(神島)八代神社を同時遥拝している。この遥拝線を反対方向(西)に伸ばすと、当寺に隣接する春日神社を通過し二上山北側の山裾に至る。寺全体が東西方向の神佛の通り道の下にあり、当寺付近の見通しの良い所に立てば東に三輪山、西に二上山を直接遥拝できるので、江戸時代は建屋内から三輪山、二上山を望むことができたはずだ。本堂など建屋と参道は北に興福寺中金堂を、南に吉野神宮を遥拝していて、興福寺中金堂と吉野神宮本殿を結ぶ神佛の通り道は当寺本殿を通過する。このように東西と南北の遥拝先と神佛の通り道が本堂でクロスしている。 (神体山)御蓋山頂上付近の本宮神社と熊野本宮大社大斎原を結ぶ神の通り道は五つ塚古墳群-豊田ドンド山古墳-纒向遺跡-(卑弥呼の墓という説がある)箸墓古墳拝所-当寺東側建屋を通過する。この南北方向の神の通り道両側には多くの古墳、寺社がある。(奈良)興福寺北円堂と熊野那智大社本殿を結ぶ神佛の通り道は大和神社鎮守の森-当寺庫裏を通過する。比叡山明王堂近く護摩堂と玉置山頂上近くの玉石社を結ぶ神佛の通り道は東大寺大仏殿-東大寺南大門-(大和神社)大和神道御霊之社-当寺本堂を通過、この神佛の通り道の両側には陵墓、寺社が多い。(桜井市高家)春日神社、春日神社内古墳を起点とする、若狭彦神社(上宮)と結ぶ神の通り道は当寺建屋群の東を通過する。天智天皇山科陵と結ぶ神の通り道は当寺庫裏を通過する。(堺)仁徳天皇陵と伊勢神宮内宮御正殿を結ぶと(羽曳野古墳群)白鳥神社-当寺-三輪山を通過する。(堺)履中天皇陵拝礼所と伊勢神宮外宮御正殿を結ぶ神の通り道は当寺-三輪山を通過する。耳成山と熱田神宮を結ぶ神の通り道は当寺を通過する。出雲大社御本殿と(宇陀)八咫烏神社本殿を結ぶ神の通り道は当寺本堂を通過する。(京都)八坂神社本殿と(吉野)金峯山寺仁王門を結ぶ神の通り道は当寺西側に隣接する春日神社を通過する。当寺の東北約100mに九日神社・国津神社がある。九日神社・国津神社から西南に当寺が位置するが、その先には(聖山)耳成山、畝傍山、岩湧山、金剛山があり、当麻寺、葛木坐火雷神社、葛木水分神社、高天彦神社、橿原神宮などの寺社、多くの古墳、遺跡がある。九日神社・国津神社で神事を行えば多くの神が当寺上空を通過することになるのだろう。奈良は高層建築が少ないので少し見晴らしの良いところに出れば、多くの聖地を直接遥拝できるので神の国が実感できる。以上の通り、当寺には全方向に神の通り道があり、当寺上空で交叉する極めて恵まれた地点にある。よって当寺は清々しい神域となっている。正門前が水田となっていて松並木があるので神域の雰囲気が実感できる。寺の周囲の駐車場などに更に多くの松を植樹し、大刈込で囲めば、更に美しく神々しくなるだろうと思った。織田家墓所は背後の西方向に(堺)仁徳天皇陵、履中天皇陵、御廟山古墳、(羽曳野)白鳥天皇陵、清寧天皇陵、高屋築山古墳などが控える向きとなっており、西を向いての墓参りは堺、羽曳野の古墳群遥拝につながるようになっている。庭は小さな池と社からなり、イチョウ、アラカシ、シロダモの大木で天が覆われ、カエデの青葉、ツバキの葉、花を楽しむ庭となっている。しかしながら、江戸時代は周囲に視界を遮る建屋なく、水田が広がり、庭にカエデなど視界を遮る樹木が少なく、神が住む山々を借景にしていたのではないだろうか。池の大きさは借景の山々に合わせたものだったように思う。池(沢)の上に風を感じさせ、山々を借景とし、天空の変化を楽しむのが本来の姿で、「37風火家人(ふうかかじん)家を正す」家を正しくすれば天下が治まる。女が正しく家を守れば、男は外で正しい行動ができることを表現する庭だったが、借景を失い、樹木が大きくなり、神社風の庭に見えているだけなのだろう。イチョウ、カエデなど落葉樹が葉を落とし、空が良く見える冬の方がこの庭は本来の姿に近いダイナミックなものになると思った。