平城京東院庭園

パイオニア的庭園

平城京は伊勢神宮と出雲大社を結んだ線上に造営したと伝えられているので、伊勢神宮正宮と出雲大社御本殿中心を線で結んで見た。東院庭園は通らないが朱雀門のすぐ北側を通り抜けた。春日大社境内南の紀伊神社と出雲大社本殿中心を線で結ぶと、興福寺東金堂、中金堂、当庭園の北側を通過した。興福寺五重塔と出雲大社本殿中心を線で結ぶと中央建屋と池を通過した。興福寺中金堂と(韓国)洞華寺を線で結ぶと池を通過した。多賀大社本殿中心と法隆寺五重塔を結ぶと中央建屋と池を通過した。東大寺正倉院と(沖ノ島)宗像大社沖津宮を線で結ぶと池を通過した。熊野本宮大社大斎原と(奈良)ヒシアゲ古墳(仁徳天皇皇后陵)を線で結ぶと中央建屋と池を通過した。貴船神社奥宮と熊野本宮那智大社を線で結ぶと下賀茂神社東本殿を通過するが、賀茂斎院歴代斎王社と熊野本宮那智大社を線で結ぶと中央建屋と池を通過した。このように多数の遥拝線が交差する地点を選んで作庭したことが読める。爽やかな庭池は神が遊ぶ池と表現できる。復元された平城京朱雀門、第一次大極殿は西に(対馬)海神神社を、北に若狭彦神社上社を遥拝している。当園の北東建屋、隅楼も西に海神神社、北に若狭彦神社上神を遥拝している。しかし中央建屋、及び周囲の塀壁は西に1度ほど角度がずれ、北に1~2度ずれている。朱雀門と並行方向に中央建屋や塀壁を復元した結果、これらは遥拝方向から少しずれたのではないかと思った。東西方向に向く東大寺講堂跡と海神神社を線で結ぶと線は池を通過する。南北方向に向く藤原宮跡鴨公神社と若狭彦神社上社を結ぶと線は当園内の西側を通過する。よって四方が見渡せる隅楼は(東)東大寺、(西)海神神社、(南)耳成山と藤原宮跡、(北)若狭彦神社上社への遥拝所だと読み解けた。高低差が少ない奈良の庭池は近代に作られたポンプで水を循環させるもの、山に隣接する池を除き溜め池ばかりである。752年(天平勝宝4年)、東大寺大仏開眼会が行われた。759年(天平宝字3年)、鑑真が唐招提寺を建立した。東大寺、唐招提寺境内は庭のように美しいが、創建当時の庭は見当たらない。そのような中、約1,275年前の後期平城京(745年~784年頃)時代に、流水式の池が作りにくい奈良に、地下水を利用した、水深が浅い流水式庭池を作ったことは画期的だ。ここからそれほど遠くない平等院鳳凰堂は1053年建設。浄瑠璃寺庭園は創建の1047年(永承2年)以降に作られたもの。円成寺(えんじょうじ)庭園は創建1156年頃に作られたもの。平安時代の浄土式庭園よりずっと以前に、スマートな流水式の庭がここに作られている。多くの遥拝線が通過する庭なのに儀式を行う中央建屋以外に宗教的建屋がない。現代人が修復した庭なので近代庭園に似た雰囲気となっているが、それを差し引いても遥拝線、流水型池を導入した日本庭園の先駆けであり、浄土式庭園のように型に嵌められておらず、現代アートのような斬新さ、自由さがある。仁和寺や曼殊院に流れていると同じ皇族の恋の庭の空気も流れている。なぜそのように感じるのか書き出して見た。池に卵型の石を敷き詰め洲浜を卵型の石で表現しているので、現代庭園に多用される白砂庭に似た色調となっている。中之島に橋を架けていない。中央建物は池をまたぐように建屋の柱の一部を池の中に配している。北東建物は南北方向に全開としている。隅楼は東南の端にあり、隅楼に登れば外の景色が見えると思わせる解放感を付与している。曲水を設けている。植樹された木々の色合いが優しい。塀壁で囲まれ、外に隣接する住宅がなく生活騒音が入ってこないし空が広い。詩歌を楽しむ曲水(小川)の流れが優しく、壁で囲まれているのに水流音を感じない。音を発する瀧が無い。中央建物など各建物は住居に適していないので生活感がなく宴会、観劇、遊興のみに使う建屋だと一目で判る。中央建物の南側は長い縁側、そして中央建物に東方向に一直線に平橋がつながっているので遥拝先があること、この先に聖地があることを示している。中央建物と平橋の上から池に映った月と空の月とを楽しめることが一目で判る。池の北岸に石組みが有るが、後世の石組みとは意味が違うように見える。単純に日時計として使っていたのではないかと感じさせる。池の周辺にポツポツと石が置いてあるが、これも方角確認、或いは遥拝目印の目的もあるのではないのだろうかと思わせる。このように庭風景が自然界で見かけないアート的で機能性を感じる。楽器演奏音楽、詩歌を読んだ声がどのように通るのか興味を持った。当時は書物が少なく、口頭会話における感性が鋭かったので、詩歌を楽しむことは重要な交際手段だった。昼は曲水で詩歌の宴を楽しみ、夜は現代とは比べものにならないほど瞬く星々を見上げ季節の星座を楽しみ、池に映る月を鑑賞し談笑したことが想像できる。平城京の貴族にはいろいろ遊びがあった。それが当庭で披露され遊びの場として使われたことも見て取れる。「州浜(すはま)づくり;中国の盆景は唐の時代に始まる。当時、中国で流行していた盆景遊びが日本に伝わった。」その盆景を大きく表現したのが当庭園。中国人は宴席で漢詩を作り合い、うまく作れなかったら罰酒を飲まされる。それを発展させたような「曲水の宴;水の流れにお酒の入った盃を浮かべ、自分の前を通りすぎる前に歌を詠んで盃の酒を飲んで次に流し、つぎの人も歌を詠み披露しあう。」「平城京の発掘調査で、コマやサイコロ、木トンボが見つかっている。」中国から伝わった「囲碁」「双六(サイコロ遊び)」「蹴鞠(けまり)」「打毬(だきゅう);ポロに似たスポーツで、馬上の競技者が2組に分かれ、杖(つえ)で毬(まり)を打ってゴール(球門)に入れる競技。」「音楽演奏と鑑賞、おどりなどを楽しむ宴」「月見、花見の宴」。当庭園では打毬以外の、平城貴族の遊びすべてが楽しめるようになっている。宴会、観劇場として使われるだけでなく、遊びを披露する場としても使われていたことが想像できる。東院庭園の説明では「分析した結果、奈良時代後半の東院庭園には主にアカマツ、ヒノキ、ウメ、モモ、センダン、アラカシ、ヤナギ、サクラ、ツバキ、ツツジなどの樹木が植えられていたと推定しています。」とあるので、これらの樹木が遊びを盛り上げたことだろう。類推するに当園は中国から学んだ最先端の遊びの実験場、遊びを進化させる役割を果たしていたように見える。平安貴族が楽しんだような、カルタ、貝あわせのような遊びも当園で披露されたのではないかと想像が膨らむ。庭造りの原点、州浜(すはま)づくりを発展させた庭で、新しい文化を披露したことが見て取れる。それらがパイオニア的な庭として感じさせられるのかも知れない。