浄瑠璃寺

仏教の本質を表現している

奈良興福寺から直線距離でわずか5㎞の京都府と奈良県の県境地点だが、当寺は平城京近くと思えないほど山深いところに、ヒノキ、アラカシなどの大木に囲まれた池と平安後期の本堂および三重塔がある。三重塔に薬師如来像を、本堂に九体の阿弥陀如来像を安座させている。三重塔が東端に立ち、三重塔を中心に西方向へ約90度の幅で有名な浄土式庭園を展開させている。池中央の中之島をはさんで三重塔側が此岸、本堂側が彼岸、此岸から彼岸を拝み九体の阿弥陀如来像が放つ光を彼岸で受け止める形となっている。寺で良く聞く説法で、人は母の愛を受け胎内で育まれた後に生まれ、両親の愛情を受けて育つ。要約すれば人は愛情を受けてこそ育つ。この仏庭は阿弥陀如来が放つ愛の光を此岸で受け止める形となっている。本堂を眺めていると仏教が儒教文化を持つ中国で育まれ浄土信仰が生まれたことを連想し、本堂に入り阿弥陀如来中尊像を拝むと、中尊像が中国人をモデルとして作られたように見えてくる。庭を一見すると大木に囲まれた平安時代後期の牧歌的な雰囲気だが、良く見ると中之島に石橋が架かり、島の石組がスマートで、護岸に石組が組まれ、観光に便利なよう池が周遊でき、2本の春日型石灯籠と中之島先端の石にて庭に遥拝線を画く江戸庭園だと気が付く。夜、石灯籠に明かりを灯すと蝋燭の光が池に反射し、一条の線が浮かび上がるようになっている。更に本堂の扉を開けると暗闇の中、蝋燭の光で九体の阿弥陀如来像が浮かび上がって見え、更に九体の阿弥陀如来像が池に反射し此岸から拝む人々を圧倒するようにしている。江戸時代、園内はヒノキではなくマツで覆われていた。園内の樹木をマツに戻せば完璧な江戸庭園に戻り、視界が良くなりより更に美しくなるはずだ。上述したように本堂と三重塔の間、池の東西にそれぞれ春日型石灯籠が立ち、島の先端の石がその中間にある。本堂側の春日型石灯籠は本堂の中央位置にあるが、三重塔側の春日石灯籠は三重塔の中心位置から少し外れている。本堂中心、本堂側石灯籠、島先端の石、三重塔側石灯籠を結んだ線を東に伸ばすと浜松城天守閣に到達する。本堂も略、浜松城天守閣に向いているので、九体の阿弥陀如来像は浜松城を遥拝しているようにも見える。しかし三重塔と本堂中心を結んだ線を西に伸ばし続けるとブッダガヤ大菩提寺に至る。更に本堂はブッダガヤ大菩提寺に向けて建てられているので三重塔側(此岸)から見た本堂の背後にはブッダガヤ大菩提寺が控えている。グーグル航空地図に写された三重塔は少し歪んでいるので、三重塔への階段参道と合わせて判読するに、やはりブッダガヤ大菩提寺の向きに建てられている。尚、三重塔は南に熊野那智大社を、北に滋賀院を遥拝している。滋賀院勅使門前と熊野那智大社神殿を線で結ぶと線は三重塔を通過する。滋賀院本堂と熊野那智大社神殿を線で結ぶと線は池を通過する。滋賀院すぐ傍の慈眼堂と熊野那智大社神殿を線で結ぶと線は本堂のすぐ西側の山裾を通過する。池に架かる石橋が向く先もグーグル航空地図の写真では正確に判読しにくいが(京都)禅林寺(永観堂)阿弥陀堂、或いは南禅寺に向けたように見える。重複説明になるが、三重塔側(此岸)から本堂(彼岸)を見ることは九体の阿弥陀如来像だけでなく、ブッダガヤ大菩薩寺を拝むことにつながっている。これとは別に本堂が略、東の浜松城に向いていることを利用し、江戸時代に、二本の石灯籠の位置、中之島の石組を調整し庭に浜松城遥拝線を作ったと読んだ。境内図を見て特異に感じたのが、山門を鬼門(東北)方向に開け、結構細長い直線参道を設けていること。この参道は真ん中でくびれている。駐車場から入って最初の直線参道は東北方向の多賀大社方向に通じているので、山門に向かうことは多賀大社を背にして進むこと、山門から出て進むことは多賀大社に向かうことに通じている。次の山門までの参道は西南方向の春日大社に通じているので春日大社に向かうことに通じている。以前、石清水八幡宮の記事で書いたが、石清水八幡宮の表参道「三の鳥居」手前から南の方へ下りる道の先に、谷に沿って180mほど真っ直ぐに下る直線道がある。その直線下り道に沿って東南方向に線を伸ばすと当寺に到達する。当寺の山門前参道は多賀大社の方角にピッタリと合っているので、石清水八幡宮のその参道は浄瑠璃寺を介し多賀大社を間接遥拝する意味を込めたのだろう。浜松城遥拝線及びこの多賀大社遥拝線は天海が采配したように感じた。池中央の島に宗像三女神の一柱で水の神、イチキシマヒメを弁財天として祀っている。庭の中央に弁財天(イチキシマヒメ)社を作った理由を読み解くため、イチキシマヒメを祀る宗像神社・石清水八幡宮、主祭神である彦火明命と夫婦であることを画いた絵馬がある籠神社、それぞれの神社、神宮から中之島の弁財天社に向けて線を延ばし、更に線を延ばし続けたが、聖地を通過せず、どこかの聖地へ到達する訳ではなかった。そこで天海が遥拝線を作るために弁財天社を設けたと考え、上野寛永寺弁天堂を起点として中之島の弁財天社に向けて線を延ばし更に伸ばすと、(奈良)大山守(応神天皇の皇子)那羅山墓、ウワナベ古墳を通過し、平城京第一次大極殿に到着した。上野寛永寺弁天堂が各聖地に光を届ける意味を持たせるために、当寺の中央に弁財天社を設けたのだろう。ついでになるが上野寛永寺弁天堂遥拝線が平城京に到達したので書かせて頂くが、伊勢神宮内宮と出雲大社を結んだ線上に平城京を作り、仏教を国教とし、伊勢神宮を信仰するグループと出雲大社を信仰するグループの和解を図ったようなことを聞いたことがあるが、伊勢神宮内宮の主祭神は日本統一したイザナギの娘アマテラス。アマテラスはスサノオの姉で、アマテラス・スサノオ姉弟の息子、アメノオシホミミの子孫は神武初代天皇につながる。それに対し出雲大社の主祭神は大国主(オオクニヌシ)、大国主はスサノオがアマテラス以外の女性に産ませた男系子孫。出雲大社の歴代宮氏(千家氏)はアマテラス・スサノオ姉弟の息子、アメノホヒの子孫。大国主はアメノオシホミミの子孫に打倒されたが、この話の登場人物すべてがイザナギに通じる血流なので、統治者血族の整理がされただけであり、古代において和解がされていた、大国主の血流は多数の息子を通し民間に根付いたと考えるのが自然だと思う。出雲と伊勢の仲たがい伝説は仏教を日本に根付かせるための理由付けだったのではないだろうか。東アジアの統治者にとって仏教は人民管理に便利な宗教だった。それを広めるための理由付けだったのではないのだろうか。古代、人は畏敬すべき生命エネルギーを出す大木、岩、山、洞穴に神の存在を感じ信仰の対象とした。大和朝廷はその信仰を封じ込めるため、それら聖地の大木、岩に縄を掛け、傍に神社を建て、原始信仰から血流信仰へと移行させた。しかし神社信仰だけでは人民管理に十分でなかった。そこに登場したのが仏教。仏の方から人が生きるに必要な愛を降り注いでくれる教えがあり、仏の愛を受けた信仰者の心を温める仏教を取り入れることで日本の宗教体制は完成した。インド人が発見した如来像、菩薩像、五大明王像を拝めば像に仏が宿り、生命エネルギーが発せられることを中国人は発展させた。寺院で修行を積めば明王、菩薩、如来になれることを示し、他人からの愛を受け取れる人、他人に愛を送れる人を目指して生きるべきことを説いた。この庭にはその仏教の本質が画かれている。