1968年(昭和43年)本堂の東南に重森三玲が庭を作った。重森三玲の作品は遥拝と神佛の通り道を意識し、日本帝国陸軍の戦いに関連しているものが多いので、先ずは本堂正面と参道が指し示す先を調べると太平洋の激戦島があった。南溟とは南の海の意味で、(人が亡くなった後にはいる世界)冥を連想させる。本堂に貼り付けてあった南溟庭の解説とは異なるが、庭に南方の島々での戦いで犠牲になった方々がいる冥界を画き、戦死者の冥福を祈る意味を込めたと理解した。(輪島市)総持寺祖院法堂と山口大神宮境内を結んだ線が本堂を通過し、本堂はピッタリではないが、東北の総持寺祖院法堂と西南の山口大神宮の方角に向いているので、庭石は神佛の通り道を指し示し、二つの亀石組で神佛の往来を表現し、神佛が爽やかに庭を通過している意味を込めたと理解した。グーグル地図に線を引いて見ると、本堂は(連合艦隊司令部があった)戦艦大和、武蔵が長期停泊したトラック諸島に向いている。本堂の約3度右側にはガダルカナル島のホニアラ国際空港(ヘンダーソン飛行場)があり、その線上にはテニアン島がある。テニアン島のすぐ東(本堂の右3度未満)にはサイパン島がある。本堂の左右各6度まで範囲を広げると本堂の左に守備兵が全滅した硫黄島、右に守備兵が全滅したグアム島がある。本堂はこれら激戦島に祈りを捧げる方向に向いている。トラック島空襲では多くの艦船、商船が沈められ約8千名の戦死者が出た。ガダルカナルの戦いでは帝国陸軍3.6万名の内、2万名の戦病死者が出た。サイパンの戦いでは(記事によって守備兵数に差があるが)帝国陸軍2.85万名、帝国海軍1.5万名の両軍全滅、捕虜者は僅かであり、民間人約1万名が亡くなった。テニアンの戦いでは帝国海軍4.5千名、帝国陸軍4千名の両軍全滅、捕虜者は僅かであり、民間人約3千名が亡くなった。グアムの戦いでは約2万名が戦死し、グアム先住民約6百名が亡くなった。アメリカ軍に日本軍以上の犠牲者を出させた硫黄島の戦いでは約2万名が戦死した。これらを合計すれば民間人を含め約13.3万名の犠牲者となる。マリアナ沖海戦、潜水艦で沈められた艦船、商船の戦死者、アメリカ軍の戦死者を含めると更に多くの犠牲者数となる。本尊がこの方面の戦いの犠牲者に対し冥福の眼差しを差し向けるために庭を冥界にしたと思った。元あった庭の姿について記述しているものが見つからなかったが、妙心寺大方丈南庭のように地面を強調した苔庭で、天空と地面を眺める庭ではなかったかと思う。天空と地面、武士階級と農民階級をいかに結びつけるかを思慮するための庭だったと思う。