毛利氏庭園

世界大戦時代の邸宅庭園

表門に至るマツの並木道城門を連想させる大きな表門庭の外側の長池と呼ばれる壕。表門の外の山側に大木となったスダジイ2本がこの邸宅庭園が森の中にあるように感じさせる。表門を潜り、路を進み石橋に向かう。路の山側にはアラカシ、シラカシの大木がそびえ、石橋の近くにはクスノキの大木がそびえている。路沿いには丸刈りされた多数のサツキと程よく剪定された多数のカエデが来訪者を迎えてくれる。石橋を渡り、弯曲した路を進むと、路の左側(内側)にアカマツ群が路の右側(外側)に広葉樹の林が、路の両側にサツキの丸刈りが続く。平たな面を上面とした大きな石々が一定間隔で置かれている。アカマツが多く植えられているエリアがあるので武家の面影を残しているが、スダジイ、クスノキ、アラカシ、シラカシなど威圧感のある大木が多くそびえているので明治以降の軍国主義路線に沿って作られた邸宅庭園のイメージが強い。本邸着工は1912年(大正元年)、完成は1916年(大正5年)、毛利元昭(1865年~1938年)、毛利元道(1903年~1976年)の邸宅として使われた後、1967年(昭和42年)毛利博物館となった。邸宅であった期間、世界は大戦争の渦の中にあった。1914年~1918年 第一次世界大戦、1917年 ロシア革命、1929年~1932年 世界恐慌、1931年 満州事変、1937年~1945年 日中戦争、1939年~1945年 第二次世界大戦、それに続くアジア・アフリカ民族独立戦争、1945年~1950年 中国第二次国共内戦、1950年~1953年 朝鮮戦争、1955年~1975年 ベトナム戦争。正に第一次世界大戦からベトナム戦争の期間中、毛利家当主の邸宅と庭園だった。本邸など建屋の南北方向の線を南に伸ばすと高千穂神社にピッタリと到達する。本邸など建屋は高千穂神社を遥拝する方向に建てられているので、庭は高千穂神社遥拝庭園である。本邸2階、南方向への視界の先には向島(錦山)があり、錦山が高千穂神社への遥拝目印となっている。本邸の南、2本のヤマモモの巨木近くから錦山方向を拝むと、手前にある深く掘りこんだ瓢箪池が錦山を迫らせ高く大きく見せる。更に、池の周囲のマツなどの樹木を大木に育てることで池をより深く感じさせている。池水面のスイレンや水草が南方向からの太陽光の反射を食い止めている。池の手前、鑑賞地点の足元に大きな石を配し、池の中に大きな石橋を配することで錦山を堂々と見せている。その視覚効果と、大木を育む山に囲まれた重厚な建屋群によって、当邸から鷲が飛び立ち錦山の方角に向かって飛んで行くような迫力がある。明治維新以降の軍国主義路線に乗った庭特有の、平らな面を上面にした少し黒色がかった大きな石をあちこちに配置し、踏み石を平らな面の巨石で作り力の誇示をしている。広い平面の芝面を庭のなかにふんだんに取り入れているが、巨大な石灯籠を用いているので、大名庭園のような人を包み込んでくれる優しさはない。邸宅庭園完成直後の1916年(大正5年)に大正天皇を、1922年(大正11年)に貞明皇后を、1947年(昭和22年)に昭和天皇を、1956年(昭和31年)に昭和天皇・香淳皇后を招き、宿泊してもらっている。マツ、ヒノキの大木の足元にマンリョウを植える気配り、江戸時代以来の植木職人の剪定技法による美しさはあるが、巨大な平らな石の周囲にサツキの丸刈りを配した近代的な意匠、ヤマモモなど樹木を巨木に育て、巨石、巨大な石灯籠を配した力の誇示が目立つ。庭中央の巨大な石灯籠の傍らから本邸を望むと庭園内のマツなどを大木に育て玉散らしの剪定を行い、多数のサツキの丸刈りを配置しているので美しく、深い森から流れて来る水が巨石の石組みの枯瀧を通して豪快に瓢箪池に注がれるように見せている。明治維新を乗り越え、明治の変革を取り込んだ安堵感を本邸に感じるが、本邸が活躍した時期は世界大戦争のど真ん中にある。庭園内にはたくさんのカエデが植えられている。紅葉の季節、赤い紅葉が瓢箪池を真っ赤に染める時期、天国から見た地獄の赤い池に見えるのではないだろうか。毛利元道は12歳で陸軍地方幼年学校に進学、22歳で陸軍士官学校を卒業、次いで陸軍砲工学校、陸軍野戦砲兵学校で学び、34歳ごろドイツに留学、陸軍砲兵少佐に昇進した後、35歳で退役、貴族院公爵議員に就任した。庭の背後の山にドイツの森やドイツ軍の雰囲気を感じる。ここは正に毛利元道の庭である。昭和天皇御手植樹アカマツの傍から望む兵舎・校舎のような雰囲気の本邸は夏日を受け瓦、白壁、本邸前の土面を輝かせている。本邸の木壁が光を吸収し、マツ、スギ、ヤマモモ、サツキなどの樹木が影を作っているので、庭が背景の山に連続し、本邸が山の中にあるように感じさせる。兵舎・校舎のようなデザインによるものか、借景の山の上空が広いためか封建時代が終わり、新時代が来た開放感を感じさせる。江戸時代末期、幕府及び大名は多額の借金に苦しんでいた。倒産直前の企業のような状況にあった。明治維新に乗じ幕府及び大名は借金を踏み倒し、うまく逃げ切ったようなところがあるが、維新後、大名は爵位を拝し明治政府の意向に沿って先祖が築いてきた封建制度の徹底破壊、そして軍国主義路線の片棒を担がされた。その路線に沿って源氏崇拝に関わるものを徹底破壊した。江戸にあった美しい大名庭園を公園に変え東京から源氏の聖地遥拝ポイントを消し去った。全国をくまなく結ぶ松並木の街道を殺風景な道路へと作り変えた。戦争を理由に山の美しい木々を伐採し尽くした。1945年(昭和20年)に入り、アジア解放という大東亜戦争の戦争目標に道筋を付けていたにも関わらず、アメリカと互角に戦う力を失っていたのにかかわらず降参せず、空襲を許し、日本中の封建的歴史遺産を消し去る協力者であり続けた。市民(旧藩民)の大量死を受け入れた。旧藩民の子を虐殺されるに近い戦場に送り続けた。封建時代の良い慣習、自らの祖先が長い年月をかけて作り上げた美しいものすら破壊する協力者であった。その大名の子孫達は献身的な政府への協力とは裏腹に終戦後の爵位制度廃止にて平民(市民)となった。明治政府の最大の政治目標だった封建制度の完全破壊の協力者達は、政治目標の到達と共に政治の世界から退去させられた。庭には世界が戦争に明け暮れた大正・昭和時代を感じる。ウメ、サクラ、ツツジ、ショウブ、フジなどの花木さえも戦争に花を添えていたように見えてくる。庭園内の多数のサルスベリが花をつけていた。スイレンの花が咲いていた。たくさんのツバキが実を付けていた。夏日の下、本邸と庭は世界大戦への協力を高千穂神社に向かい懺悔している姿に見えてくる。毛利博物館で展示されている主な展示物が江戸時代の美術品であることがそれを物語っている。