満州国皇宮(偽満皇宮博物院)

空を楽しむ庭

ウメでもサクラでもないがウメ・サクラのような花が咲く楡叶梅(YUYEMEI)シベリアザクラ「オヒョウモモ」)が一番目立つところに植えられ、雲杉(クモスギ)、マツ、ヤナギ、ウラジロモミがあった。冬は零下30度以下になる地域なので大変な管理をされ、維持されていると思った。多数の鯉が泳いでいるが何回越冬した鯉なのか興味が湧く。東御花園は1938年、佐藤昌(1903年~2003年)が中国北方庭園と日本庭園とを組み合わせて作った庭だと説明されていた。四角の敷地内に、池があり、橋が渡され、遊歩道にて回遊ができ、噴水を楽しむことができる。春から初夏は楡叶梅(YUYEMEI)が同徳殿に花を添える。ここは5月まで寒いので5月が短い春と言えるのかもしれない。石灯籠とマツがなければ日本庭園の特徴を見落とすようなところがある。日本の封建時代の遥拝庭園・礼拝庭園とは明らかに異なる。明治維新以降のヨーロッパ宮殿庭園を真似た明治・大正・昭和の日本庭園の構造をしている。中国庭園で見られる石が置かれているので、中国、日本、ヨーロッパ宮殿庭を融合させたものと言った方が適当かも知れない。日本で見た類似している庭は大正天皇、貞明皇后、昭和天皇、香淳皇后が宿泊された山口県防府市の毛利氏庭園。1912年(大正元年)着工の毛利氏庭園は池を掘り込むことで、南側の借景山を高く見せていた。借景山は向島(錦山)で、高千穂神社への遥拝の目印としていた。そのため毛利氏庭園の方がはるかに大きくダイナミックに感じるが、この庭も掘り込まれた池にて空を高く見せる構造としている点は同じだ。緯度の高い中国東北部は空が高く青い。池はその青空をより高く見せる効果を上げている。写真撮影時、この庭が一番綺麗に見えるはずの青空がなかったが、大きな池があるので空の変化を楽しむ庭だ。中秋の名月はさぞ美しいことだろう。1985年 初めて長春を訪問した時、一部の市電撤去の工事が始まり都市改造に手が付けられたばかりだった。1948年 長春包囲戦、1950年~1953年 朝鮮戦争、続く中ソ対立、1966年~1976年 文化大革命、ベトナム戦争終結の1975年頃まで平和はなかった。満州国首都(新京)時代の建屋ばかりで、未だ大東亜戦争が終わっていない街だと感じた。今や高層ビルが建ち並び、地下鉄や軽快な電車が走り、高速道路が完備され、大量の高級車が走っている。30年前の面影はほとんどない。長春地質学院前広場(満州国時代に建設途中だった新宮殿、その前広場)が現代風の広場となっていた。その南側の偽満州国国務院跡では満州国時代の説明展示を行なうのを止めていた。この長春(新京)においても大東亜戦争は完全終結したと感じた。昭和初期の悲しい歴史を感じることができる庭は歴史の証言者として生き続けることだろう。