萬翠荘

戦争協力への悲しみを秘めた邸宅庭園

入り口の門は軍営門そのもので、門に向って左側の警備建屋が来訪者に威圧感を与える。門を入ったところの山裾面に丸刈りされた多数のサツキがリズム良く配され、続いて大きくならないよう剪定されたマツが植えられている。黒塗りの高級乗用車が出入りする雰囲気の門を入り、坂道を道に沿って登ると右手に突然、星型の池を中心とした庭が見える。急こう配の城山の裾を利用して作った池庭なので、池の周りはしっかりとした石組みがされている。陸軍のシンボル 星の形をした池の前に立つとフランス風洋館が綺麗に映っている。水面上に映る洋館に見入り、ふとその上に眼をやるとうっそうとした木々の間に本物の洋館がそびえている。木々で狭められた視界一杯、急こう配の山裾の上に洋館が見えるので、洋館が大きくそびえ立っているように見える。星形の小さな池、その池に大きく映る洋館、その上にそびえ立つ本物の洋館。門から城山の森の中に入いり、虚実二つの洋館を見せられた来訪者は久松定謨伯爵に畏敬の念を抱いたことだろう。更に路に沿って邸宅に向かう。坂道を上がり切る前に樹木の中に星形の池が隠れる。池底が見える水が澄む池だったので、見えなくなると心に池の水が沁みる。路の曲がり角にもサツキの大刈り込みの下に水の綺麗な小さな池があり、その綺麗な水にハッとする。そして先ほど星型池に映っていた洋館が目前に現れる。このトリックがこの庭の特徴だ。邸宅内はフランス風で明るく、音楽を感じる。暖炉の上の綺麗に磨かれた大鏡の輝きと先ほど見た池の静かな水面とが重なり、大鏡を前に背筋が伸びる。当邸宅庭園は、フランス陸軍士官学校を卒業しフランス歩兵連隊で勤務し、帰国後、帝国陸軍近衛師団で勤務し、日露戦争期間中はフランス駐在武官だった久松定謨伯爵(ひさまつさだこと1867年~1943年)が軍事戦略を練る場所だったとの印象を受けた。久松定謨中将が予備役に編入されたのは1920年(大正9年)、当邸宅庭園は1922年(大正11年)に建てられた。建立直後、皇太子摂政宮(昭和天皇)が滞在された。その後も皇族が愛媛県に立ち寄る際の滞在場所として使用された。当邸宅庭園は鳥取城内宝隆院庭園の「仁風閣」と似ている。「仁風閣」は旧鳥取藩主 池田氏第14代当主、池田仲博(いけだ なかひろ1877年~1948年)が1907年(明治40年)に皇太子嘉仁親王(大正天皇)の宿泊施設として建てた。池田仲博は1898年(明治31年)陸軍士官学校を卒業、1902年(明治35年)から貴族院議員(侯爵議員)を務めた。当邸宅庭園が創建目的通り使われたのは1920年~1945年の25年間。しかし時代は創建思想をはるかに越えたものだった。1929年~1932年 世界恐慌、1933年ヒトラー内閣成立、1936年マジノ線竣工、1939年~1945年 第二次世界大戦。その25年間は日露戦争のような軍事戦略を練ると言ったレベルではない流れだった。毛利氏庭園の毛利氏、鳥取城内宝隆院庭園の池田氏などと同様、明治維新後、伊予松山藩藩主も爵位を拝し明治政府の意向に沿って祖先が築いてきた封建制度の徹底破壊、そして軍国主義路線の片棒を担いだ。久松定謨の補導役としてフランスへ渡り、騎兵戦術の習得に努めた秋山好古(1859年~1930年)が大活躍した日露戦争の時代の思想で作られた邸宅だと思うが、建立後の歴史は上述のように軍事戦略を練るレベルでなかった。封建時代の文化遺産を破壊し尽くし、軍人だけでなく民間人への大量虐殺を実行し、隣国同士の国民が憎みあう、拝金主義への道だった。その観点から見て、当邸宅庭園も毛利氏庭園と同じく悲しみを秘めた遺産だと言える。建屋の方向を調べると、当邸宅に遥拝先は無かったが、時計方向に邸宅を約5°回転移動させると北に出雲大社、東に玉置山・玉置神社・玉石社が遥拝できるポジションにある。本邸宅庭園が建立される以前の家老屋敷は出雲大社と玉石社とを遥拝していた可能性がある。源氏の一員だった久松家(久松松平家)が自ら源氏の聖地への遥拝地を消し、軍国主義の片棒を担ぐ本邸宅庭園を建立したこと。当邸宅が秘める悲しみの一つだと思う。