宇和島城

城壁と天守閣が江戸時代の面影を感じさせる。1597年(慶長2年)慶長の役の際、藤堂高虎は宇和島城から水軍を率いて出陣した。そして釜山の南、加徳島から直線距離約17km地点で行われた漆川梁(しっせんりょう)海戦で朝鮮海軍を略壊滅させた。宇和島城天守閣は加徳島に向いているので、この海戦後、藤堂高虎は加徳島にあった3つの倭城のいずれかの城に向け天守台を築いたのだろう。天守閣は東北方向には朝鮮通信使のための迎賓館だった(広島)対潮楼がある福禅寺に向いている。東南方向には鬼ケ城山系の尻割山山頂付近に向いている。南西方向には奄美大島、沖縄本島に向いている。天守閣の向きから朝鮮半島、奄美諸島、沖縄諸島の有事に備えた水軍城だったことが偲べる。尻割山山頂付近に向いているのはそこに狼煙台があったからだと推測した。戦国時代、現在の宇和島城郭が築かれる以前、攻められているがそれを守り切った幸運城であり、江戸時代の天守閣が現存しているので神に守られている城だと思い、グーグル地図上で神の通り道を捜した。(熊本)国見岳山頂と日本武尊の父(奈良)景行天皇山辺道上陵中心を結ぶと天守閣のすぐ南を通過した。景行天皇陵付近には多くの古墳があるので多くの神が宇和島城上空を往来している。(宮崎)高千穂神社本殿と(奈良)談山神社本殿を結ぶと城跡東端と天赦園を通過した。(宮崎)祖母山山頂近くにある健男霜凝日子神社上宮と浜松城天守閣を結ぶと宇和島城本丸御台所を通過した。(宮崎)青島神社と(兵庫と鳥取をまたぐ)牛ケ峰山山頂近くの牛ケ峰神社を結ぶと宇和島城の東南を通過した。(鹿児島)霧島高千穂峰山頂近く霧島岑神社元宮と(香川)金刀比羅宮を結ぶと天守閣すぐ南、そして天赦園中央を通過した。金刀比羅宮は広く、高千穂峰山頂付近には天の逆鉾もあるので、霧島山高千穂峰山頂と金刀比羅宮を往来する神々の線下に宇和島城がある。このように多くの神の通り道の下に宇和島城がある。天守閣が向く鬼ケ城山系の尻割山山頂付近から宇和島市内を見ると宇和島城の式部丸あたりが宗像大社沖津宮の遥拝目印、天赦園の北外側が宗像大社中津宮の遥拝目印、天赦園の南側が宗像大社辺津宮の遥拝目印となっている。海に面する山を利用し、山周囲を掘り、掘りを海水で満たした城だったので、かつて海上から見た城は易経「25天雷无妄」を表現していたと思う。天も雷も人力の遠く及ばない強大極まる力を持っている。そのような神に守られた宇和島城は人力が遠く及ばない力を持っている。その城に対し、至誠を持って従うべきことを表現していたと思う。藤堂高虎が築城した郡山城は応神天皇が権現するように作られていた。宇和島城は日本古来の多くの神を呼び寄せる神社のような城だ。城内上り立ち門付近に近代の戦死者を祀る護国神社があるが、日本古来の神に守られている宇和島城と趣旨を異ならせている。