京都府立植物園 裸婦像(2)

「麦藁帽子と少女」ブラジャーなしと判る肩を見せた半袖ブラウス姿なので中学生なのだろうか、或いは子供の世界から脱却できない成人手前の少女なのだろうか。麦わら帽を持っているが、ベルトなしのジーンズを履いているので、農作業手伝いをするつもりも無く、気ままに細長い立椅子に座り空や比叡山を眺めている。両腕を合わせるようにすることで胸や股を隠し、O型に開脚したところに麦わら帽を持っているので、子供のままでいたいのだろう。麦わら帽を外した裸足姿なので、目前の水場で水遊びをした直後なのだろう。せせらぎで小魚を取り逃がしたのか、大人の説教が気に食わないのか、不満な表情をしている。麦わら帽を外していることから雲が出て、見通しが落ちた世界に包まれたことが連想できる。少女は比叡山を拝める位置にいるのに、子供のしぐさで座り、涼み、比叡山から少し目線を外している。後ろ姿はすでに成人女性なのに心は子供のまま、少女時代の卒業を拒んでいる。親から十分な躾教育を受けていないからなのか現代子は成長が遅い。なかなか成すべきことが見つけられず、進んで学べず、自己判断での行動がとれない。日本民族の基本思想は血のつながりのある祖先崇拝、祖先霊集る神社での先祖神への信仰。穢れた行為を避けること。仏教から日本民族が学んだ、犯さない、盗まない、殺さない、貪らない、騙さない、嘘をつかないなど社会や組織を維持する行為を実践すること。災害が多く、人口密集地の日本で生存するためには親が子に日本民族の基本思想を躾ける義務がある。しかしながら自分さえ良ければ良しとする拝金主義、競争主義にて、人として生き抜く慣習、規則に疑問を感じた多くの親が子への躾を怠っている。躾を受けなかった少女像のように体は成人に近づいているのに、怠惰に気ままに過ごせることも権利だと錯覚し、学ぶべき時に学ぶことを拒否し、気と心、マインドとハートの成長を止めている。愛と躾はセットなので親の自覚が求められている。「岐路」写真を撮っていると若いお母さんに連れられた幼い娘が像に向かい大声で「裸の人がいる」と叫んだ。植物の茂みの中から道に向かい前進する裸少女像だ。少女から成人女性となる岐路にいて、捨て去り離れるべきものがあるのに、振り返り、捨てるべきもの、離れるべきものに未練を残している。しかし前進は続けている。少女の心と成人女性の心は同居できない。キッパリと成人女性への道に進むべきだが、人心は簡単に切り替えることができない。多くの人の愛情の中で育まれた少女時代の心、伴侶を掴み愛情を育てる成人女性の心、その二つの心が同居できるはずがないが、お互いの心は惹きあう。母と娘の心がお互いに惹き合い、永遠に通じ合うのはこの自然原理によるものだろう。しかしながら母と娘の立場、進むべき方向は正反対なので、お互いに背を向け反目し合う仲であり、母は娘の恋を応援し娘が結婚し家を出て新たな家庭を作ることを強く望む。この少女は振り返ることを止め成人へと前進するしかない。「おもい」両手を頭の後ろで組み、両脚をピタリと揃え、右手右脚を少し吊り上げ胸を上げポーズをとっている。愛する男性の前でなければ見せないようなセクシーポーズなので、一見、無防備そうに見えるが少し手と脚を動かせば拳法の攻撃体勢に入ることができる真剣勝負の形だ。つまりは自らの想いを恋人に告白し、結婚を掴むため勝負に出た成人女性の姿である。少女時代を卒業し、成人教育を受け、社会に出て研鑽を積み、一人前の成人女性となり、結婚適齢期に愛する男性を掴んだ女性だからこそできるポーズ。勝負に出ても跳ね返される未熟な成人女性がとれるポーズではなく、完熟した成人女性がとれるポーズでもない。少女時代を拭い去り、成人となり学ぶべきことを学び、勢いある時にのみできる勝負のポーズだ。人生勝負に勝ち結婚することで、彼女の人生は完成する。