京都府立植物園 裸婦像(1)

「萃」像、手を後ろに組み、豊満な胸を突き出し、転げそうに脚を交差させ、あられもない姿で植物園に出現した裸少女、このような裸少女に出くわすことは現実世界で有りえない。衝撃的な美の創作だ。萃は易経45澤地萃から命名したのだろう。先に記事にした御堂筋の裸婦像(3)「緑の賛歌」像と同じく、多くの人が集まる賑わいのある場にて、生贄にされる少女を画いたと読んだ。謝肉祭やカーニバルのように、祭りに形を変えた生贄儀式には多くの荒々しい男が参加するも、屈強な男たちはカーニバルの勢いに飲まれ、おとなしくしている。生贄儀式を象徴する像は儒教に洗練された日本、中国、朝鮮に似つかず、女性客の顰蹙を買っている。ボディラインを見せるバレエダンスレオタードとシューズを着用した「踊」像が地面を捉え、身構え「萃」像を見つめている。指導者に絶対服従の厳しいバレエダンスのレッスン。すさまじい競争の中で研鑽を求められる。そのようなレッスンにて鍛えた体と精神を持つ少女が鋭い眼つきで生贄にされる少女を見つめている。背後には比叡山が聳えている。道を隔てた安全地から生贄儀式を観察しているだけではあるが、育ちざかりの少女は見た事を人生経験の一つと捉え、必ず何らかの成長行動に出る。彼女が次に取る動作は何なのだろうか?バレエ少女が初心者であれば、目の前で起きたことに衝撃を受け、それを明らかにしようと親や指導者に問いを投げかける。一般的に親や指導者は育ち盛りの少女に社会の暗部を教えたがらず、生贄儀式と日々のレッスンは別物、バレエを学ぶことの重要性を説き、問いかけを巧みにレッスンへと誘導する。バレエを続ける少女の心の奥底にしこりが残るも、少女が経験を積み大人となれば自然と疑問が解け、しこりは消える。バレエ少女が中級者であれば、バレエの上達を望む親や指導者は少女が受けた衝撃を消そうと躍起になり、これまで以上の愛情を注ぎ、少女にバレエの楽しさを植え付ける。志を持ち、努力し、一定レベルに達するも、まだまだ未熟な者が、安易に志を捨てると中途半端な人生を歩み始める恐れがあるので、周囲の者は暖かく、優しく、より一層丁寧に指導してくれる。本人もその愛に答えるべく努力するので、上達スピードは倍増する。バレエ少女が上級者であれば、なされるままにされる生贄少女を見て、これまで指導者に絶対服従の心でバレエに取り組んできた心が燃え尽きてしまう恐れがある。身を返し、この場から立ち去り、自らの心が欲する新たなものを探す旅に出るだろう。日本人が好む自分探しの旅は、往々にして厳しい組織で無理して働き、練習していたところ、何らかの衝撃的な事件に出くわし、心が燃え尽き、仕事や練習を投げだし、自分にふさわしい新たな生き方を探す旅に出てしまうことである。バレエは世界的な組織であり、動くことはない。それに対し、人であるバレエ選手の心は自由なので、衝撃を受けるとバレエから離れてしまう。自分探しの旅に出て外の世界で経験を積み、再びバレエに戻ることにでもなれば、人の心を理解できる優れた指導者へと成長していることだろう。この二人の少女の先にあるのは「歓びと期待」像のように天の声を聴く姿かも知れない。