芳徳寺(芳徳禅寺)

地の庭

方丈前庭に白砂は敷かれておらず、地面が強調され、多数のサツキが丸刈りされている。方丈裏庭は雨水排水を兼ねた池庭だと思うが、十分に見られないので方丈前庭に絞って書きたい。ずば抜けた運動神経と動体視力を持ち、心眼でものごとを観る剣術家の菩提寺の庭。自然体に近い前庭だが迫力がある。当寺に隣接して児童福祉施設が運営されている。正に真剣勝負の場が隣接している感もあり、庭に緊張感が漂っている。柳生宗厳(石舟斎1527年~1606年)とその父、柳生家厳(1497年~1585年)はおそらく旧陸軍小隊長クラスの武将として幾多の最前線で戦闘を経験した。新陰流継承者、柳生宗厳(石舟斎)の長男、厳勝は辰市合戦で鉄砲により重傷を負ったが、厳勝の子、利厳(1579年~1650年)は新陰流を伝える尾張柳生家を開き、代々尾張徳川家の剣術指南役を務めた。(石舟斎)四男宗章(1566年~1603年)は吹雪の中で敵兵18名を切り倒したが戦死した。五男、宗矩(1571年~1646年)は1615年(慶長20年)大坂夏の陣で将軍、徳川秀忠のもとで従軍し、秀忠に迫った豊臣方の武者7人程を瞬く間に倒した。柳生宗矩の代まで戦場で大量の血を見た家である。宗矩の子供の代は皆参戦経験なし。但し、宗矩の長男、三厳(1607年~1650年、柳生藩第2代藩主)は壮絶な仕合をした。利厳の子、厳包(1625年~1694年)は就眠中に刺客に襲われたが脇差で片手斬りした逸話がある。当寺は長男三厳が徳川家光に再出仕する前年の1638年(寛永15年)柳生宗矩が開基し、沢庵宗彭の開山で創建された。戦場で血なまぐさい経験をした祖父、父、兄に育てられ、自身も大量の血を見た柳生宗矩が作庭したと解釈した。初代藩主柳生宗矩像、その末子の列堂義仙像、沢庵和尚坐像が血の匂いがする庭を見守っているように見える。庭そのものは単純構造なので明らかに借景庭園。血の庭の印象を受けたので、血と同じ音の地の庭と言う事だろう。易象の地を下卦とし、天、沢、火、雷、風、水、山、地を上卦とした象意は剣術教練場の経営につながっている。冬の庭に雲一つない青空が広がったら「12天地否」太陽光線が暖かくなく、地が固いので天地が交わっていない。師がいくら張り切っていても師の暖かさが伝わらず、弟子に指導を受ける素地がなければ、指導にならない。雨が続き庭の地面に水たまりができたら「45沢地萃(スイ)」恵みの雨が続き庭草が増えるように、人、物が集まるにぎわいが庭に見られる。人、物が集まる祭りのような所は突発的な事変、異変が起きやすい。祭りの前こそ刀を研ぎ備えるべきことを教える。太陽が地上に上ったら「35火地晋」太陽が昇れば光のおかげで明るくなり、光熱のおかげで地の作物が育つ。喜悦の時である。太陽はどんどん上に、芽は上に伸び木になろうとする。師は太陽のように明るく暖かくあってこそ弟子が良く育つことを見せる。春に雷が轟き地を震い立たせると「16雷地預」春を迎え雷が鳴るのは自然の道理。剣術が一定レベルに習得できた時は雷が鳴った時のように突然習得できたように錯覚しがちだが、師の指導があり、先輩があり、長い自己修練があったからだ。雷が轟く春が来ることは予め判っていたように、良い師匠に恵まれ精進を積めば成果が出ることは予め定まっていたこと。剣術が一定レベルまで習得できれば懈怠心が起きやすい。そのような時は柳生家祖先の墓を参拝し、方丈の柳生宗矩像に礼拝し、祖先の功績を賛美し、引き続き精進を積み更に成果が出せるようにしろと叱咤する。風が地上を行けば「20風地観」風が地上をなでるように行くように、剣術を学ぶ者は師の動作をなでるように観取らなくてはならない。心で把握しなければならない。好きな剣術を学ぶ時は楽しくてしかたがない。その楽しさに飲まれて心は散乱しやすい。心を集中させ心で師の挙動を把握せよと教える。地上が潤い、苔面が美しいと「8水地比」大地が潤うと母なる土は土本来の育成が果たせる。そのような師匠と生徒とが親しみ楽しく学べる時には、往々にしてご無沙汰していた不良な者が楽しみを求めてやってくる。師弟はそのような者を見分け、剣術教練場が安寧であることを図れと忠告する。大雨が続き借景の山が崩れそうになれば「23山地剥」優れた師匠がいなければレベルの低い者が幅をきかせる。剣術教練場の危機は優れた師が不在となることだと警告する。霧が出て天空が見えず、山が見えず目前に庭の地面だけが見える時は「2坤為地」母なる大地が足元にある。剣術教練場は大地であり、それを生かすには優れた環境作りが必要だと告げてくれる。次に方丈及び庭を囲む白壁塀が指し示す方向を調べると、正面に京都御所を遥拝する方向に建てられていた。白壁塀の中央門を潜り庭に入り方丈に進み礼拝することは京都御所を遥拝することにつながっている。本尊及び木像への礼拝を終え、本堂内から庭を見た場合、借景庭園ではあるが目線の先に遥拝先がない。背後に京都御所が控えているからだろう。方丈の左右方向、向かって右の東北東方向に名古屋城本丸御殿を、向かって左の西南西方向に春日大社、応神天皇陵を遥拝していた。本堂の建屋廊下に沿って西南西に向かって頭を下げて本堂に入ることは春日大社、応神天皇陵を遥拝することにつながり、東北東方向に頭を下げ本堂から出ることは尾張徳川家を遥拝することにつながっている。国生み伝説のある淡路島南の沼島の「おのころ神社」と「名古屋城本丸御殿」とを結んだ線は途中に応神天皇陵、春日大社境内、当寺境内正木坂剣禅道場の少し南を通過する。聖地の多い線上に当寺を建立し、それら聖地の方角に本堂を合わせたのだろう。山号の神護山はこの聖なる線上に当寺、大和柳生城跡があるからだろうか。方丈廊下から庭を見ることは京都御所を背にして鑑賞することになる。借景庭園なので借景の邪魔となる大きくなったカエデなど樹木を思い切って伐採し、或いは大木を大きく刈込した方が当初の庭に戻せて良いと思う。その方が地の庭から易経の象意がよく読み取れると思った。尾張柳生家、厳包が城下の邸宅に尾張随一といわれる庭園を造ったと伝えられているが、どのような庭だったのだろうか。江戸柳生家の庭はどのような庭だったのだろうか。剣士の芸術品はシャープな切れ味があるので、日本刀の切れ味を感じる庭だったことだろう。この庭も本来の姿に整備すればそのように見えることだろう。