金剛寺 (大阪府河内長野市)

天野山 金剛寺(こんごうじ)真言宗御室派大本山

車を運転し大阪外環状線を南に向かって走る。河内長野市街地を抜けると進行方向が東に替り両側に田畑が広がる。左に岩湧山を見て進むと急な傾斜の山道へ、そしてトンネルに入いる。一つ目のトンネルを抜けると金剛寺方面への標識が出ている。二つ目のトンネル手前の側道から標識に沿ってスロープ道に入り谷へ下るとすぐに金剛寺に至る。「女人高野」「天野行宮(あまのあんぐう)」と呼ばれる当寺は天野山などの森に囲まれた静かな中にある。伽藍は谷の西側斜面、高度170~190m地点に規則正しく建っている。その谷の東側の天野山中には鎮守社、高野明神社があり、伽藍はその方向を向いている。天野山山頂(273m)は伽藍から東南約300m地点にあり枯山水庭園の借景となっている。西側の伽藍と東側の鎮守社との間の谷底を流れる川(渓流)の水源は伽藍周辺の山及び南に1.5㎞ほど先の山(岩立城跡、標高302m)付近までの周辺にある。南南東3.7㎞地点の 一徳防山(標高541m)、南南東6.3㎞地点の岩湧山(標高897.7m)、南南西4.7㎞の槙尾山(標高600m)は水源となっていない。水源を有する標高300mほどの山々に囲まれた地はまるで要塞のようで、山の要塞の中央、谷間に伽藍がある。1354年、後醍醐天皇の息子、後村上天皇が光厳・光明・崇光の三上皇を連れて河内天野に移り、金剛寺を行宮と定めた。1359年まで5年間、金剛寺は南朝、北朝の行宮(御座所)所在地だった。ここを行宮としたのも山に囲まれた要塞のような地勢、山の要塞内に水源があったからだろう。ここには大阪府で唯一、江戸庭園の美しさを完全な姿のまま今に伝える枯山水庭園がある。この枯山水庭園を保持し続けてこられたのも、この地勢、行宮所在地だった歴史、当寺の経営によるものだろう。江戸時代、大阪に豪商が多く住み、幕府直轄の大阪城があったので多数の庭園があったはずだがことごとく撤去された。大阪で生き残った貴重な江戸庭園として思い浮かぶのは守口市、旧中西家住宅;主屋とその西側の武家庭園は略往時のままで見応えあるが、周辺のビル、住宅が庭園から見えるし、借景山を失っている。主屋南側の作業用広場を見栄え良くするため白砂を敷きつめ近代庭園を加えたことで品の良い歴史学習館にしたと感じる。東大阪市、鴻池新田会所跡;見応えある会所庭園と主屋がそのまま保存されているが、借景の生駒山を高層ビルで失い、霊峰生駒山の山頂に祈りを捧げる本来の借景庭園でなくなっている。時代が変わり周辺の水路が機能していないので往時の姿ではない。大阪市住之江区、加賀屋新田会所跡;周辺の近代ビル、住宅にて借景にしていた大阪湾、六甲山、淡路島を失い、庭本来の美しさのポイントが変化している。往時、水路を利用し舟で来訪してくる客人を出迎え、見えなくなるまで見送った物見台を含む往時の建屋から江戸時代の雰囲気を想像するしかない。富田林市、龍泉寺;上記3箇所と違い、現在も庭が祈りの場として機能している。池と中島とからなる江戸時代以前に築庭された歴史ある庭であることが見て取れ、相当に見応えがある。池の護岸、中島の石組み、島に架けた石橋などから江戸時代に手が加えられたことも見て取れる。ただし近年、池の周りに植樹した木が江戸庭園の雰囲気を変えている。龍泉寺の庭も素晴らしいが、江戸庭園を今に伝える度合いで言えば、当寺の庭は洗練された美しさ、バランスの良さがある。残された上記の江戸庭園と比べ群を抜いている。当寺の伽藍は東面が4本筋、北面が5本筋の築地塀で囲まれている。摩尼院(南朝御座所)は3本筋の築地塀で囲まれている。庭と奥宮(観蔵院・北朝御座所)を含む本坊エリアは白色の築地塀で囲まれている。歴史を調べて見ると後醍醐天皇の時代に関東兵の乱入騒ぎがあった。1524年(大永4年)11月、金剛寺が巻き込まれる大きな戦闘が天野山の東側、日野であった。いずれの戦乱も乗り切り、平安時代末期に再興された伽藍を守り、絶えることなく祈りを続けてこられた。伽藍の中に立つと深い祈りに包まれていることが感じられる。伽藍など建屋の向きや参道の向きは桃山時代、江戸時代に調整されたと思うが、伽藍での祈りを誰に捧げるために調整したのか、庭は誰に祈りを捧げるものだったのか調べるためグーグル地図を見た。グーグル地図は家屋の枠と航空写真の家屋枠とが一致しないことがあるので、私見も入れた解釈となることご容赦いただきたい。天野山に向く伽藍「金堂」「薬師堂」「五仏堂」「御影堂」「多宝塔」「食堂」「楼門」そして「竜王池」の東西方向の縁(北と南の縁)を東に伸ばすとすべて浜松城に到達した。東を向く仏像は浜松城を見つめ、浜松城天守閣を遥拝している。伽藍から見て天野山は遥拝目印となっている。伽藍の南北方向の縁(東と西の縁)は高野山大門に一致した。よって南に向く像は高野山大門を見つめ、高野山大門を遥拝している。参拝者は浜松城、或いは高野山大門を見守る仏像を礼拝することになる。摩尼院(南朝御座所)の書院の東西方向の縁を東に伸ばすとほとんどが浜松城に到達するが、一部の縁は久能山東照宮に到達した。ごく一部の縁は伊勢神宮内宮に到達した。書院の南北方向の縁を南に伸ばすと高野山大門、一部は金剛峯寺と奥の院に到達した。一部の縁を北に伸ばすと能勢、妙見山に到達した。摩尼院の書院は浜松城を遥拝し、久能山東照宮と伊勢神宮内宮に気を配っている形になっている。摩尼院の門は久能山東照宮を遥拝する方向に向けて建っている。グーグル地図では摩尼院門前の参道のラインが判読できなかったが、参道も建屋と同じく浜松城に向けていると思う。

枯山水庭園のある本坊。本坊の「門」の外から本坊内を覗きこむと、「大玄関」「客殿」建屋とそれらを結ぶ廊下が見える。廊下をまたいで枯山水庭園に置かれた春日型灯籠、若葉と紅葉が美しいカエデが見える。廊下の屋根の上にはそのカエデの頭がでている。早く本坊内に入り、庭を鑑賞したい気持ちにさせられる。夜は春日型灯籠の光が客人を招き入れる趣向となっている。本坊に入ると「客殿」前に置かれた手洗い鉢に視線が釘付けになる。注がれた清く澄んだ水に見とれる。時間の関係だと思うが注がれた水に太陽光が射しこみ清清しい。顔を上げれば息を飲むほどに美しいコケ面の庭が展開している。このような演出は良く見かけるが、ここの手洗い鉢は大きく、コケ面が波のように起伏があり、サツキの丸刈りが大波のように表現されているので感動の度合いが違う。「客殿」東南には「大玄関」を経て南の「奥殿」に向かって伸びる廊下がある。「客殿」西には「持仏堂」「茶室」に向かって伸びる廊下がある。それらの廊下と「奥殿」「客殿」「持仏堂」「茶室」に囲まれたところに上述した美しいコケ面の枯山水庭園がある。「持仏堂」「茶室」に連なる廊下は更に奥の「宝物館」につながっている。枯山水庭園とは別に「客殿」から「持仏堂」「茶室」に伸びる廊下の北側に池のある小さな庭がある。枯山水庭園とは別に「奥殿」の南側に池のある細長い庭がある。本坊建屋の多くの東西方向の縁を東に伸ばすと伊勢神宮内宮に到達した。多くの南北方向の縁を北に伸ばすと大阪城天守閣方角に到達した。本坊全体で見ると伊勢神宮内宮と大阪城天守閣を遥拝する形になっている。しかし本坊内の各建屋を個別に見ると伊勢神宮内宮と大阪城天守閣以外を遥拝している建屋や参道がある。北向きの「大玄関」と「門」は共に大阪城天守閣の方角にピッタリと合わせている。しかし「大玄関」と「門」との間に敷かれた白砂上、「大玄関」と「門」とを結ぶための四角い石を並べた直線道をそのまま東北方向に伸ばすと亀岡城天守閣跡にピッタリと到達する。本坊の「大玄関」から出ること、「門」を出ることは大阪城天守閣に向かう事に通じるが、「大玄関」と「門」の間を「門」に向かって歩くことは明智光秀が築城した亀岡城天守閣に向かい遥拝しながら歩くことに通じている。この白砂上に敷かれた歩道は亀岡城天守閣ひいては明智光秀に敬意を示す形になっている。「持仏堂」は伊勢神宮内宮を遥拝する方角にピッタリと合わせている。北には大阪城天守閣に敬意を示している。「茶室」も伊勢神宮内宮と大阪城を聖なる方角とし、両者に敬意を示している。「客殿」の東西方向の縁は(淡路島)伊弉諾神宮の方角に一致した。南北方向の縁は大阪城天守閣に一致した。「客殿の西北に位置する建屋」の東西方向の縁も伊弉諾神宮の方角に一致した。南北方向の縁は紀伊国一之宮丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)の方角に一致した。「客殿」の西側に作られた池のある小さな庭は伊弉諾神宮を遥拝する庭となっている。「客殿の西北に位置する建屋」から南に庭を観ることは丹生都比売神社を遥拝することになっている。これまで京都を中心として200以上の寺社を見て来たが伊弉諾神宮の方角に建屋の縁を合わせているのを見るのは富田林市、龍泉寺・豊岡市、宗鏡寺以来3回目である。これまで私は近畿地区の江戸庭園が伊弉諾神宮を無視していると思っていたが、そうでもない江戸庭園が複数箇所あることを知った。グーグル地図を見ていて気が付いたことだが、伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)-金剛山山頂-高天彦神社(たかまひこじんじゃ)は一直線上にあり、そのラインは当寺院の南大門のすぐ南を通過する。過去に当寺にあった100を超える子院の一つはこの聖なるライン上にあったはずで、その子院は西に伊弉諾神宮を遥拝し、東に金剛山、高天彦神社を遥拝する形になっていたはずだ。「奥殿」の北と南の縁(東西方向の縁)は東の伊勢神宮内宮の方角に3度ほどずらせてある。西の伊弉諾神宮に合わせていない。「奥殿」の東の縁(南北方向の縁)は大阪城天守閣に合わせている。西の縁は丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)に合わせている。「奥殿」から北の枯山水庭園を鑑賞することは大阪城天守閣を遥拝することにつなげている。「奥殿」から南の細長い池庭園を鑑賞することは丹生都比売神社を遥拝することにつなげている。以上のように徳川幕府の行政府、そして歴史ある寺社などを遥拝する向きに各建屋を建てている。

枯山水庭園を「客殿」側から見ると、この庭は本坊が保有し展示する屏風画「日月山水画」の続きであることが見て取れる。私は屏風画オリジナルを見たことがないがパンフレットに印刷された「日月山水画」には建屋が画かれず深山幽谷に多数のマツが植えられている。この枯山水庭園の先には「廊下」と「奥殿」があり、「廊下」の背後には借景の天野山があり、庭の内外には大木が育っている。人が住む建屋のある庭から、客殿内に展示されている建屋のない「日月山水画」の中に鑑賞者を引き込む趣向がなされている。庭と「日月山水画」とはセットになっている。屏風画「日月山水画」に画かれた世界と同じように庭を表現するため、「山」は借景の天野山にて、「松」は鶴島の樹齢600年の立派なゴヨウマツにて、波は多数のサツキの丸刈りにて表現している。「日月山水画」も「当庭園」も荒波が強調されている。波に飲み込まれてしまうほどの迫力がある。鶴島のゴヨウマツは相当に見応えがある。比較的小さな石を組んで作られた枯瀧近くにも、垂直に立つ背の高いゴヨウマツがある。これも見応えがある。築庭当初においては絵画との一致性を持たせるため更に借景の山や庭を囲む塀の外周りに多数のアカマツ、クロマツを植えていたと思う。「客殿」内の屏風画「日月山水画」と、庭に画かれた「日月山水画」両方を見て楽しめる。そればかりか屋内の屏風画の世界に空想で遊んだ後、庭に作られた絵の中の世界に実際に歩いて入ることができる。庭に降りれば草木に触れることができ、気温、匂い、光、風、雨、雪などで屏風画の中にあった世界が五感で楽しめる。庭先から客殿に戻ることは現実の庭の世界から架空の絵の中の世界、空想の世界に戻ることになり、屏風画と実際の庭と心を行き来させ、心を遊ばせることができる。中秋の名月は客殿から南の上空に見える。屋内の屏風画に振り返ると画中の満月が見える。現実と架空、両方の満月を見て楽しむことができる。1799年(寛政10年)庭を改築した庭師雪舟流の家元谷千柳はこの遥拝庭園に屏風画の世界を画いただけでなく、更に一歩進め陰陽思想も吹き込んだ。コケ面の上には多数の飛び石、庭石を置いている。それらは皆白っぽい石となっている。庭内の大木がコケ面に陰を落とし、深い陰の世界が出来上がっているが、白っぽい石が太陽光を受けて輝くと、陰の中にある陽が浮き上がるようになっている。夜、コケ面が暗闇に沈む。中秋節など満月の明るい夜は飛び石、庭石、灯籠が月光を受けて浮かび上がり、夜陰の中に陽が浮かび上がる。月光のない夜はこの陰の庭の中央にあり、庭の中心となっている春日型灯籠の光が白い飛び石、庭石を浮かび上がらせる。日差しのきつい時は太陽光を受けて反射する飛び石、庭石が陰のコケ面の中に輝く。太陽光を受けた石が輝けば、日陰にあるコケ面はより深みある輝きを放つ。雨が降れば飛び石、庭石が濡れてコケ面の中に沈み、コケ面の美しい緑が強調され、庭の中の陰が深まる。陽と陰とが駆け引きをしながらお互いを美しく輝かせている。小ぶりの石を組んだ枯瀧は樹木の陰になっているので、陰の枯瀧だ。その陰の枯瀧からチョロチョロと流れ落ちた瀧水が、コケ面が表現する大海となり、サツキの丸刈りが表現する大波を起こす。瀧口から注がれる少ない水がやがては大海となる。すべてを包み込む女の生き方を表現しているように見える。庭の周囲を取り囲む塀は白壁なので、コケ面だけの陰気な庭とならないように配慮されている。白壁がコケ面の美しさを際立たせている。コケ面が放つ美しい陰の顔。それと真逆の飛び石、庭石が放つ陽の顔。その両方の顔が刻々と表情を変え、陰と陽とが強弱を変える。陰の庭の中に陽をちりばめた庭は男女の関係を表現しているように見える。男女共にお互いの愛情の中で輝けると訴えているように見える。男女は競い合う関係でないことを表現しているように見える。そして男女の離合を表現しているように見える。明治維新以降、男女関係を極端な関係とする風潮が続いてきた。戦前は男尊女卑を強要し、戦後は男女が競争相手となる平等関係を強要してきた。いずれも男女がお互いを叩きのめすような不正常な関係だ。この庭を見ていて落ち着くのは陰陽を調和させ、陰陽の関係が刻々と変化することを利用し、お互いが駆け引きし輝きあっているように見せているからだろう。それが引いては男女の自然な関係を表現しているように見えるからだろう。現代庭園においてもこのような陰陽表現を取り入れたものはやはり美しい。「客殿」から見える陰が強い枯山水庭を鑑賞していると「奥殿」から見える枯山水庭を鑑賞したくなる。そこで南に伸びる廊下を伝って「奥殿」に向かう。グーグル地図で判読できたのは、「大玄関」から廊下の腰掛待合までの間の直線部分に沿って東南に線を伸ばすと熊野本宮大社に到達した。「大玄関」から廊下に沿って腰掛待合に向かって歩くことは熊野本宮大社に向かって歩くことにつなげている。廊下に沿って歩き、鶴島のゴヨウマツを越えたあたりから庭の風景が一変し始め、腰掛待合付近で完全な陽の庭になる。先ほどまで陰が強調された庭に酔いしれていたのに、廊下に沿って「奥殿」に近づくほどに太陽の光を受けた多くの石が眩しいように輝く陽の庭になる。それもそのはずで、奥殿はもともと隣の寺、寺の統合に合わせ、庭を連接させたもの。元は池庭だったが、枯山水庭園に改造されたもの。急に明るい庭になったので意表を突かれたような気になる。腰掛待合付近にアカエゾマツのように見えるカヤの大木がある。腰掛待合はその大木の日陰に位置する。廊下に沿って更に「奥殿」に進むと陰の庭が急激に陽の庭に変化していく。「奥殿」から望む枯山水庭園は完全に陽の庭である。一つの枯山水庭園を北から南に向かって見ると陰の庭、南から北に向かって見るのと陽の庭。陰陽の切り替えが鮮やかである。「客殿」から望む陰の枯山水庭園と「奥殿」から望む陽の枯山水庭園、どちらが美しいかと言えば、「客殿」から望む陰の枯山水庭園の方がはるかに美しい。男女どちらが美しいかと言えば当然ながら女性。自然の道理に合わせている。「奥殿」から陽の庭を鑑賞していると「客殿」で見た陰の庭が恋しくなる。魅力に富んだ構成になっている。陽の枯山水庭園は、西側に大きな緑色の一枚板岩を立てそれを枯瀧と見立て、その枯瀧から廊下側に向け多数の玉石を配し豪快な枯河を作っている。枯河は廊下の下を潜り「大玄関」の東側へと流れていく。枯河はそれほど深く掘りこまれていない。深く掘り込んだ方が枯河は美しくなるが、深く掘り込めば陰の河となってしまう。枯河に配された玉石は白系石で太陽光や月光を反射し庭が明るくなるようにされている。枯瀧付近は大木の陰にあり、枯河の途中から大木の陰はなくなり太陽光を目いっぱい反射している。深山から麓に水が流れている様を表現している。緑の一枚板岩で作った枯瀧から豪快に枯水が落下し、枯水が枯河に注がれている。大量に流れ落ちた枯水は一筋の太い枯河となる。まるで豪快な男の生き方を表現しているように見える。枯瀧近くの枯河の中に円柱のサツキの大刈込がある。その少し下流の枯河の中に島に見立てたサイコロ状の白い石が置かれ、その上に3脚の雪見灯籠が置かれている。この雪見灯籠が陽の庭の中心となっている。この陽の庭の大胆な景色は自然界では見ることがない風景だ。円柱状のサツキの大刈込は、陰陽を表す太極図を表現したものだと思うが、男特有の理論先行型の不自然な思考性を表現しているように見える。サイコロ状の石の上に立つ 3脚の雪見灯籠は雄ライオンのようでもある。男は自らの周りを支配したがる。自らは周囲を支配しているつもりでも河の中の小さな石の上で覇を唱えているだけ。河の両岸には別世界がある。そのように見える。二つの庭の合体により、庭の中に陰の部分と陽の部分とがあり、それを同時に見せ、双方の美しさを際立たせた庭はあちこちで見るが、一つの庭で北から望む風景と南から望む風景をこれほどまでにダイナミックに切り替えた庭は少ないと思う。陽の庭の西側には山奥の風情を表現する複数本のアセビが白い小さな花をたくさんつけていた。寒い季節に太陽光を受けて白く輝くさまも陽の庭にふさわしい。この庭が上手いと思うのは石灯籠が目障りとなっていないこと。「客殿」から見える陰の庭ではサツキの丸刈りによる波の表現が際立っているので、陰の庭の中心にあり、夜陰の庭を照らす春日型石灯籠が風景の中に溶け込んでいる。「奥殿」から見える陽の庭では玉石の枯河の中に3脚の雪見灯籠を置いているので目立つ。陽の庭の中心にあって、夜は枯河に敷いた白い玉石を照らして枯河を浮かび上がらせる役割を担っている。これ以上目立つ置き方がない置き方とすることで目障りになっていない。陽の庭には更に複数本の春日型灯籠が置かれているが、多数の飛び石、枯河にて目立たなくしている。庭を見渡して、石の先端を天に向けている石が少ない。石の個性を殺す平らな面を天にしている石が多い。明治維新以降に築庭された大半の庭は石の個性を殺しているが、「奥殿」付近の庭も同じ考えで改造したのかも知れない。廊下を渡り「奥殿」に到達する所に「観蔵院門」がある。「観蔵院門」の東と西の縁を南に伸ばすと高野山大門に到達した。門は浜松城天守閣の方角にピッタリと合わせてある。「観蔵院門」から出ることは浜松城天守閣を遥拝することにつなげている。「奥殿」内に入り三上皇御座所を見学し、上段の間の南側廊下の障子を開けて「奥殿」南側に作られた池のある細長い庭を鑑賞する。この細長い庭は単純な構造。単純構造の庭は伽藍、山、空を楽しむ借景庭園であり、その基本通り作られている。伽藍から祈りの声が聞こえてきそうだ。池は比較的深く掘られ、バクテリアの繁殖にて深緑色となり池底が見えない。背後の築山の斜面を急角度にすることで池をより深く見せている。それによって白壁塀の外側の伽藍、山、樹木がそびえ立っているように見せる。庭に垂直に立つカヤの幹にても山や空を高く見せる。江戸時代庭園の特徴は建屋の向きを遥拝対象の方向に向かせ、樹木や石に方向性を持たせ、遥拝先を指し示すことの美しさにて鑑賞者を酔わせる。池はそれほど大きくなく、地面の平面の方が面積は広い。池と平面地面とで庭の陰陽のバランスをとっている。池を取り囲む庭石は皆小さな石々だが、尖った角を色々な方向に向けることで個々の石に個性を持たせ、発言させている。よって庭がとても饒舌で、石と石とが会話しているように感じる。石々の表面には白色のコケが成長し味わい深くなっている。静かな庭の中に饒舌な石々がいるので、凛とした静けさの中に賑わいがある。饒舌な石々の会話に参加したくなる。「奥殿」の住人はこの庭の石々を友達としていたことだろう。饒舌な石に取り囲まれた池に映る中秋の名月。「奥殿」の廊下から饒舌な石々と一緒に見る中秋の名月はとても楽しいものがあるだろう。たとえ一人で月を見ても寂しい思いとならないことだろう。「奥殿」裏庭の鑑賞を終え、再び「奥殿」から北に展開する枯山水庭園を観る。多数の石々を見せる堂々たる陽の庭だ。「奥殿」に置かれた手洗い鉢に木の蓋が被せられている。陽の庭に水を差さないようにしてある。この時代までよくぞ江戸庭園の伝統を伝えてこられたと思った。当寺の伝統を守りつなげる行為に敬服させられた。廊下を伝い「客殿」に戻り、「客殿」西側の小さな庭を観た。「客殿」西側の池を配した小さな庭は最初にも述べたが屏風画を写した枯山水庭園に付け足した遥拝庭園で、淡路島の伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)を遥拝する庭だ。手前に池が、池の背後に山裾に沿ったように見せる築山が実にたくさんの小さな石が置かれている。多数の小さな石を置くことでこの庭中央の春日型灯籠を目立たなくしている。春日型灯籠の周囲に置かれた角を天にむける小さな石々のいずれかが遥拝の目印の石だと思うが、いずれの石がそれか特定できなかった。客殿手前にコケ面、池で陰を表現し、その背後に多数のサツキの丸刈りでリズムをつけ、多数の白い石を置くことで陽を表現し、陰陽のバランスをとっている。庭の中心に置かれた春日型灯籠の火袋の開口部は阿波国の方向から光が発せられたように見せるような方向としているように見える。「客殿の西北に位置する建屋」から南にこの庭を観ることは丹生都比売神社を遥拝することになっている。「持仏堂」を借景としている庭なので、池に映った満月がより神秘的に見えると思う。「奥殿」も丹生都比売神社を遥拝する向きに建っているので、同じ時間に「奥殿」「客殿の西北に位置する建屋」からそれぞれの南の池に映った月を見る人同士は、場所が違えど遥拝していることが共感できる構成としているのかも知れない。当寺は深い祈りに包まれている。三つの庭も祈りに包まれた当寺にふさわしい庭だと思った。