前回の西教寺客殿庭園記事で、本堂、本坊、書院、客殿などが「日吉東照宮」遥拝方向に建てられていたこと。各地の東照宮と聖地を結んだ多数の遥拝線が当寺を通過したことから、琵琶湖を含め「神となった徳川家康が遊ぶ池庭」と表現したが、当寺の遥拝線はそれだけにとどまらない。他の遥拝線から当寺の大本坊庭園、客殿南庭園について述べたい。総門を潜り勅使門まで伸びる参道をそのまま伸ばし続けると1,698㎞先の中国承徳避暑山荘に到達した。そこは清朝皇帝が北京故宮と瀋陽故宮を行き来する際に立ち寄った大きな離宮で、避暑山荘周囲には寺廟(外八廟)がある。参道両側の塔頭(禅智坊・禅林坊・禅明坊・徳乗坊)はこの遥拝線の方向に沿って建てられている。勅使門は北京故宮の乾清宮を遥拝する方向に建てられている。総門を潜り勅使門に向かうことは中国承徳避暑山荘に向かって歩き、勅使門を潜ることは北京故宮に礼をすることに通じている。この遥拝線は清朝に意見を述べた人物が当寺の関係者にいた事を示している。 前回記事でも書いたが、本堂、本坊、書院、客殿、及び東西方向の渡り廊下は1,710㎞先の孔子廟(中国曲阜)を遥拝している。客殿内から客殿(西)庭園を鑑賞することは孔子廟(中国曲阜)と対話することに通じている。醍醐寺の主要建屋がそろって孔子廟(中国曲阜)を遥拝していたことと共通点がある。前回の記事でも書いたが宗祖大師殿、唐門は1,795㎞先の北京故宮の乾清宮を遥拝している。このように当寺は醍醐寺と同じく清朝を見つめる方向に建屋が建てられている。当寺の建屋、参道の向きが清朝に祈りを捧げるスケールの大きな向きになっているので、当寺が東照宮を盛り上げる役割以外に、徳川幕府成立までの歴史を刻み込んだものとなっていると読んだ。織田信長、明智光秀、千利休に関わる遺跡の遥拝線が当寺を通過すると思い調べて見た。織田信長の菩提寺、大徳寺の塔頭「総見院」にある織田信長一族供養塔と安土城本丸跡付近の織田信長公本廟を線で結ぶと延暦寺根本中堂の北約80m地点をすり抜け、当寺の塔頭「安養院」を通過した。同名の「(愛知県美浜町)安養院」は織田信長の三男、織田信孝が豊臣秀吉との対立に敗れ切腹させられた寺院なので、関係性を持たせたように見える。織田信長ゆかりの「(名古屋)総見院」と(対馬)和多都美神社を結ぶと、当寺書院の西北部(東照宮が発する遥拝線がいくつも通過している部分近く)を通過し、丹波国一之宮出雲大神宮の弁才天社近くを通過した。(清州城跡)織田信長公社と清和天皇水尾山陵を線で結ぶと当寺の大本坊と書院庭園を通過した。1567年~1576年、織田信長(1534年~1582年)の本拠地、次いで1576年~1582年、織田信忠(1557年~1582年)が城主となった岐阜城天守閣と裏千家今日庵を線で結ぶと当寺総門付近を通過した。「 (清須市) 総見院」と上賀茂神社権殿を線で結んでみると延暦寺「にない堂・法華堂」そして当寺境内東端の天文堂を通過した。千利休切腹の要因の一つとなった大徳寺三門と織田勝長(生年不明~1582年)、織田信雄(1558年~1630年)が城主だった犬山城を線で結ぶと当寺境内内東端の天文堂を通過した。明智光秀の居城だった亀岡城跡と清洲織田氏(大和守家)織田久長の居城、楽田城跡を結ぶと当寺、宗祖大師殿を通過した。京都青蓮院門跡の西にある明智光秀首塚と当寺本堂を線で結ぶと延暦寺大乗院近くの護摩堂、当寺の明智煕子墓を通過した。まだまだ織田信長、明智光秀、千利休に関係する遥拝線が当寺を通過していると思うが、以上のように各地東照宮の遥拝線に隠れるようにして3名に関わる史跡を結ぶ遥拝線が通過している。このことから3名にはとてつもない秘密が隠されていると読んだ。「本能寺の変」は伝承されている歴史とは違った真実があるはずだ。本堂、本坊、書院、客殿は南方向約1.5㎞の近い「日吉東照宮」を遥拝する方向に建てられているので、各建屋は北方向に遥拝先を異ならせている。本坊は北の比良山地の最高峰、武奈ヶ岳に向いている。本堂と書院は北の興聖寺(朽木氏岩神館跡)に向いている。朽木氏岩神館跡は金ヶ崎の戦いで撤退した織田信長が撤退中に休息或いは宿泊した地と想定されている。グーグル航空地図の客殿は少し歪んでいるので正確な向き先は確定できないが熊川宿に向いているように見える。熊川宿の得法寺には「1570年(元亀元年)越前朝倉攻め(金ヶ崎の戦い)に際し、織田信長に従った徳川家康が宿泊した。境内には家康腰かけの松がありました」との説明文があった。金ヶ崎の戦いの撤退戦は明智光秀、木下秀吉(豊臣秀吉)、徳川家康が勤めている。このことから本堂と客殿の間の細長い枯山水の庭は織田信長を真っ先に撤退させた金ヶ崎の戦いを画いたのではないかと推測した。客殿南の豊臣秀吉が座った間には客殿南庭園があり。簡素な木塀がある。木塀の外側に放生池、そして明智光秀一族の墓、明智煕子の墓がある。庭は小さな石を並べ、苔を生長させツバキとカエデを植えただけの簡素な「わび・さび」を感じさせるもので、心に沁みる。客殿の東に金ヶ崎の戦いを感じさせる細長い庭。客殿南には明智光秀一族にのみ思いをはせる庭。このような配置と手配ができたのは千利休しかいないと思う。千利休が使う庭石は小さい特徴とも合う。豊臣秀吉が関白になれたのは明智光秀のおかげだと庭が説明している。大本坊入口に向かって右側に門が備えられているが、その門の中に大本坊庭園がある。大本坊南側廊下から庭鑑賞すると南からの太陽光を反射させた白砂が目に焼き付く。白砂を囲むように配置された緑の大刈込の上に、本堂の一部、鐘楼と正教蔵が屋根を見せている。江戸初期に作庭された白砂庭なので、西教寺の格式の高さを感じる。庭の中心は東南側の石組み、水が湧き出て流れ出し、本堂の方から流れて来た水と合流し琵琶湖へ向け流れて行くように見せている。この庭は本来、借景庭園で琵琶湖の湖面と対岸の山々の風景を楽しむためのものだが、現在はユースホステル西教寺(研修道場)の屋根が湖面を隠してしまっている。庭の大刈込も本来は今ほど高くなかったはずで、大刈込の先にも琵琶湖対岸の山並みが楽しめたはず。借景の琵琶湖湖面が盆地の底にあるので、対岸の山々は実際より高く見え、枯山水技法にて天上の枯川を表現した庭は天上の泉庭に見えたはず。対岸の山から昇る太陽と月、その光が湖面に反射するのを見て楽しむ庭であるはずだが、現在は樹木や建屋が借景を遮っている。大本坊建屋の東方向には徳川家康の生誕地、岡崎城があるので、建屋に沿って見る東方向から少し北を見ることは岡崎城遥拝に通じる。季節ごとに大きく異なる東から昇る太陽や月の位置で、東の名古屋城、その先に有る富士山山頂の浅間大社奥宮久須志神社、そして岡崎城・駿府城・久能山東照宮など遥拝先に思いを至らすことができる展望庭となっている。残念ながら現在は十分に借景が見えない。琵琶湖に反射する日月光は見えるのだろうか。庭を観た後、本坊内に安置されている明智光秀の木像を拝観した。よくこれほどに彫れたものだと思うほどにうまく彫れていた。正々堂々とした智力の高さを感じた。山崎の戦いで簡単に命を落とすような人物ではなく、山崎の戦いを仕組む智慧を持った人物だと思った。明智光秀・千利休・天海僧正は戦国時代を終わらせ徳川幕府を成立させ安泰なものにした歴史の司会者である。3名が同一人物と言う説もある。明智光秀の伸長はネット検索で156cm程度と書かれていた。千利休・天海大僧正は180cm程度、大男だった。当時180cmもの背の高い男は少なかったから千利休・天海は同一人物とも読める。記録に残る伸長から見ると明智光秀と千利休・天海は同一人物でないが、千利休・天海は明智光秀の息子、或いは甥だったとも読める。3名の業績はすべて徳川幕府成立と完成につながっている。千利休・天海には陰に大賢者がいたのではないかと思うほどその業績にブレがない。千利休は60歳で豊臣秀吉に仕え始めてからすぐに目覚ましい政治活動を行ったが、それ以前の千利休には商人相手の茶会を開催したらしき実績しかなく、52歳頃、織田信長が手配した茶会に参加したような記録があるが、織田信長に雇われていた期間、何の実績も無いことも不自然だ。戦国時代を生き抜いた血の匂いがする恐ろしい武将達を自在に操った軍事知識、教養、政治力をどこで学んだのか。幾多の実戦を経験した武将達をうならせるには、総大将として多くの実戦経験がなければできるはずがない。千利休の茶室すべてを見た訳ではないが、茶室は真っ暗で眼球だけが浮かび上がるイメージがある。背を高く見せる足袋を履き、高い帽子を被れば暗い茶室で伸長をごまかせたのではないか。更に、明智光秀は自らの伸長を低く見せる工夫をしていたのではないのか。千利休の切腹には不自然な点があり、その屋敷跡地は、細川忠興と明智玉(明智光秀の三女、ガラシャ)の長男、長岡休無(細川忠隆)が茶室・能舞屋敷として活用した。天海も千利休と同じように60歳を過ぎてから突如、徳川家康の参謀となり多くの実績を上げ107歳まで生きた。複数の人物が天海を演じておれば可能なことだ。徳川家康に仕えるまで何ら実績を上げていない天海が突然、朝廷との折衝に当たった。日本の宗教界をまとめ上げ宗教団体を表にした情報部門を作り徳川政権を完成させた。その教養力はどこから来たのか。徳川政権発足に大きな秘密が隠されている。謎多い徳川家康・明智光秀・織田信長・千利休・天海の秘密の一部が当寺に関わる遥拝線に見え隠れしている。清朝との深い関係が見え隠れする遥拝線は徳川幕府成立が単に日本国内だけのもので無かったことも語っている。