丸亀城

天守閣の向きを調べると、西北方向には(香川、塩飽諸島最大の島)広島にある八幡神社本殿を遥拝し、反対の東南方向には(丸亀市綾歌町)宇閇神社(うへのじんじゃ)を遥拝している。西南方向には(香川)伊吹島にある伊吹八幡神社を遥拝し、反対側の東北方向には狼煙台があったはずの青ノ山山頂付近を睨んでいる。一般的に天守閣は遠方の聖地を遥拝しているが、ここ丸亀城の天守閣は藩民に気配りしたのか天守閣建築後に創設したように思える地元神社を遥拝している。丸亀城天守閣及び櫓台から瀬戸内海対岸の岡山、広島がよく見える。赤穂城、高松城と同じく瀬戸内海を航海する船上の人々に高い石垣の城を見せることを第一にして作ったのだと思う。江戸時代全期にわたり瀬戸内海を12回も往来した朝鮮通信使は美しい飯野山を背景とした丸亀城の威容に感嘆したことだろう。城壁は名古屋城本丸方向、或いは(江戸時代の天皇家の陵墓地)泉涌寺に向いているものが多いので、多くの櫓は名古屋城本丸御殿、或いは泉涌寺を遥拝していたと推測した。大手一の門は泉涌寺を遥拝していた。西側のいくつかの櫓は(大分)両子山を遥拝していたと推測した。搦手口(からめてくち)の土橋は金刀比羅宮大門に向いていた。飯野山山頂から(韓国)洞華寺への遥拝目印は、明治以降、丸亀城内に設けられた帝国陸軍歩兵第12連隊兵舎跡、現、丸亀市立東中学校あたりとなる。(対馬)和多都美神社本殿と(高野山)金剛三昧院本堂を結んだ線は丸亀市立東中学校などを通過する。宗像大社中津宮と(奈良)飛鳥坐神社、飛鳥山口神社、飛鳥寺宝塔を結んだ線も丸亀市立東中学校などを通過する。宗像大社辺津宮と(奈良)大神神社本殿を結んだ線は大手前丸亀中学校・高等学校を通過する。大宰府天満宮と(奈良)神功皇后陵を結んだ線も大手前丸亀中学校・高等学校などを通過する。高千穂神社と(福井)若狭彦神社上社を結んだ線も大手前丸亀中学校・高等学校、大手二の門前を通過する。この神佛の通り道には丸亀護国神社があり、歩兵第12連隊、歩兵第112連隊が所在していた。連隊本部は多くの神佛に見守られていたことになる。しかしながら両連隊は幾多の激戦に参加し、敵味方双方及び現地民に多くの犠牲者を出した。歩兵第12連隊は自らも大きな損害を出したが、敵方と住民に莫大なる犠牲者を出した上海戦に参加した。第二大隊長らも作戦会議中に砲弾で戦死した。その後、第三大隊はグアム島に派遣され玉砕した。歩兵第112連隊はインパール作戦の支作戦、第二次アキャブ作戦で甚大な損害を被り独断で撤退した。独断撤退を実行した連隊長、棚橋大佐は終戦翌年自決した。現在は外堀が埋められ、丸亀城が内堀内側のみとなったので、城内に連隊本部があったことがよく判らなくなり、一度も攻められていない平和な歴史を持つ城に戻ってはいるが、連隊の悲しい歴史が天守閣に刷り込まれているかのように感じてしまう。大洲城など多くの城と同じく、水掘りを持ち、山上に白壁の天守閣がそびえる城なので、易経に当てはめると晴れた日は「13天火同人」志を同じくする者同士が揃っている城。雨の日は「25天雷无妄」人力の及ばぬ強大極まる力を持つ城。二つの強い顔を持つが、平和な歴史を合わせ持つ丸亀城を連隊本部から眺めた仕官、下士官、兵隊が戦地に向かったことを思ってしまう。