領主に恭順する意を表現した庭
東シナ海にある海丘の頂点をイメージした中心石、中心石から海底までの間には竜宮をイメージする猫脚の石灯籠、窪んだ石、海底に座る大きな石々がある。海底部分には海砂が敷かれている。猫脚の石灯籠、大きく窪んだ石を不安定に立てることで石組みがフラフラと揺れているように見せている。まるで竜宮を海面上から見ているようだ。イヌマキの大刈込が画く東シナ海の大波に中心石が飲み込まれようとしている。海底部分に置かれたサツキの刈込で囲まれた石々は、サツキが画く海波に飲み込まれようとしている。鬼界カルデラにある海丘を画いたものだと推測した。海面下の海丘なので易経に当てはめれば海水下の山「39水山蹇(ケン)」となる。蹇(ケン)の中国語の意味は「行走困難、遅鈍」なので物事が円滑、順調に進まない状況を表現している。この掛は行き詰まった時には有力者に従えという意味なので、時代が変化する時には領主に従えと説いている。当邸宅背後には領主宅が隣接していた。大きな石や窪んだ石は領主宅に向いている。窪んだ石は耳の形をしている。これらは領主の言葉を受け止める形になっている。知覧七庭園の内、当邸宅、平山克己邸宅、佐多美舟邸宅は南南東23㎞先の開聞岳を遥拝している。これら邸宅内から建屋方向に沿って庭を見ることは開聞岳を遥拝することに通じている。更に当邸宅は770m東東北の亀甲城山山頂を遥拝している。平山克己邸宅、佐多美舟邸宅は亀甲城山の方に向いてはいるが山頂にピッタリと向いていない。当邸宅は領主が住んでいた御仮屋中心(現在の家庭裁判所、検察庁)に隣接するので、御仮屋も当邸宅と同じ方向、つまり開聞岳と亀甲城山山頂を遥拝していたと考える。当邸宅内から亀甲城山が見えないようにしているのは領主に遠慮してのことだろう。当邸宅と亀甲城跡頂上までの線上には佐田民子邸宅、佐田直忠邸宅、森重堅邸宅、及びいくつかの邸宅がある。当邸宅から約2.7㎞先の母ケ丘までの線上には佐多美舟邸宅がある。当邸宅に隣接した領主邸宅から領主が亀甲城山と母ケ丘を遥拝することは、その視線下にある家臣達に思いを至らせることに通じていた。当庭園は東方向に開口部があるので日の出、月の出が楽しめる。領主が楽しむ日の出、月の出と同じ月日を楽しめるようになっていたはずだ。領主と共感でき、共に生きていることを感じる庭でもあった。知覧七庭園の佐多美舟庭に一本大きなマツがあるが、他の庭にマツの大木はない。今は無いが領主邸宅(御仮屋)に大きなマツが育てられ、そのマツは近江安楽寺のような一対の龍に見立てた背の高いものでなかったのだろうか。知覧七庭園では龍の体を連想させる波打つイヌマキの大刈込がある。五庭園には竜宮が表現されている。森重堅庭園では小さな龍頭石が見られたが、それ以外の庭では龍の姿が見当たらない。庭に龍の形をしたマツを持つ領主が、龍宮を画いた庭、龍体状のイヌマキ生垣を持つ家臣達の邸宅に龍を連れて訪問するといった意味があったのではないだろうか。龍は島津宗家の象徴で、領主の役割は島津宗家の意向を家臣達に伝えることだったと思う。