完全回復までもう一歩の小堀遠州流庭園
書院内から三つの庭を同時に楽しめるようになっている。それぞれの庭に名前をつけると書院東南側の「枯山水庭」書院西南側の「池泉回遊式庭」書院東北側の「大刈込の庭」書院傍らのモッコクが古木となり、幹にコケが付着し山深い雰囲気が出ている。「枯山水庭」は南東の三尊石を中心に展開している。三尊石部分は低い築山で盛り上がっている。それ以外は基本、山裾に沿った緩やかな傾斜面となっている。簡単構造の庭なので本来は借景庭園のはず。西側に1本小さなマツがあり傍らにサツキの刈込、その背後にツバキの大刈込、サルスベリ、その背後にユズリハが育てられている。これらの樹木は1965年(昭和40年)再建時に植樹されたものだろうか。ユズリハの背後の大木はシラカシかアラカシだと思うが長期間、庭が放置されていたので大木となったのだろう。庭の南側にスギが遠くになる方向へ一列に植えられている。このスギも戦後植えられたものだろう。庭先の樹木群が借景であったはずの南側の山を隠している。三尊石の周囲にはカエデが多数植樹されている。「枯山水庭」には二股に分かれた木は少ない。ほとんどの木の幹は太い一本幹で真っ直ぐに伸びている。そのためか三尊石が傾斜面で表現する大海、或いは広い領地を支配しているように見える。「池泉回遊式庭園」は琵琶湖を模った池と井戸が象徴的で苔面が美しい。幹の根本付近で二股に分かれた木々が多く艶めかしい。池背後の谷部に設けた井戸、その背後には逆三角形の山肌が迫っている。井戸は下品な位置とならないように逆三角形の頂点から外れた位置にある。地底エネルギーが井戸を通し庭に噴出しているような、地底と通じあっているかのような井戸だ。井戸の斜め手前に築山あり、井戸周囲の谷部を神聖な地に見せている。井戸手前の築山上に植樹されたイヌマキの枝が池の水面を這っている。書院近くタラヨウジュの大木の大きな葉がなぜか心に沁みる。タラヨウジュなど木々の足元はおだやかな起伏のコケ面で、冬はタラヨウジュなどの梢の間から零れ落ちる日差しが美しい。この面には大きな石を置かず、さりげなく少数の大きくも小さくもない石をちりばめている。この技法で庭にリズムをつけている。池は底が緑白濁し底が見えない。現在の庭は書院の東側の部屋から男を表現した「枯山水庭」と女を表現した「池泉回遊式庭」を比較し、男女の関係に思いにふける庭となっているが、「池泉回遊式庭」と「枯山水庭」の石組みが列を成していることから男女の関係に思いを馳せるだけの庭でないことが見て取れる。大海を表現した「枯山水庭」三尊石の近くの舟石がこれから大海に漕ぎ出そうとしている。この舟石が彦根龍潭寺「ふだらくの庭」の舟石と重なって見える。「池泉回遊式庭」にカエデを多数植えているので秋には池の水面が真っ赤な血染め色となる。小堀遠州は武で出世した人ではないので庭に供養の意を込めた理由はなんだろうか。青岸寺庭園には供養の意を込めた池のような蹲踞があった。供養の点が似ている。「池泉回遊式庭」の山裾はゆるやかに高度を上げ東側の山頂に向かっている。木々の幹の先に遠景が消えるようになっている。そのため庭全体が広く感じるが、庭を朦朧と見せる手法は彦根龍潭寺の書院西庭と似ている。前回の記事で述べたが青岸寺では炎のように見せた石組みと大雨の時に出現する池の現象を易経に当てはめた表現となっていた。当寺も池と井戸の上の山とで易経の「水の上の山(第4、山水蒙)」「沢の上の山(第41、山澤損)」表現となっている。「第4、山水蒙」の象はものごとがハッキリしない状態。意は未熟で幼稚でこれから学ぶべきものが沢山ある。「山澤損」の象は沢が損して山が得し、大地が損して植物が得し、植物が損して動物が得するように損ずる道は自然の道理。意は修養の上での損は怒気と欲望。「第4、山水蒙」と「第41、山澤損」の易の形は上下に並べた6本の爻(こう)の内、下から一つ目の爻が陰(- -)か陽(─)かの違いのみ。「第4、山水蒙」の下から一つ目の陰(- -)の爻を陽(─)の爻に変えれば「第41、山澤損」となる。池と井戸を山裾に同時に見せることで、易経の二つの掛の意味を庭鑑賞者に示し、自省と学習とを促す庭としている。この点も青岸寺との共通点を感じる。よって当、近江孤篷庵(こほうあん)も永平寺の聖なる気を受ける青岸寺、彦根龍潭寺と歩調を合わせて作った庭だと推測し、永平寺との位置関係をチェックした。永平寺法堂・仏殿・中雀門・山門の中央を結んだ線を南に伸ばすと青岸寺(曹洞宗)に至る。青岸寺の法堂、書院は永平寺にピッタリと向いて建てられている。永平寺法堂と彦根龍潭寺とを線で結ぶと永平寺正面から見て約2度右側(西側)に彦根龍潭寺がある。彦根龍潭寺の各建屋も永平寺に向いて建てられている。永平寺法堂と当、孤篷庵とを線で結ぶと永平寺正面から見て約1度左側(東側)に当寺がある。当寺の建屋は永平寺に向いていないが、青岸寺、彦根龍潭寺と同様に永平寺の多数の仏像の目線の先に当寺がある。当寺の建屋は西の小谷城に向いているので、北から送られてきた永平寺の聖なる気を小谷城に反射するために建屋を小谷城跡方向に向けたと推測した。少なくとも列をなして並べた当寺の庭石は聖なる気を反射させ、小谷城跡に送っているように見える。小谷城の戦いで自害した浅井長政、弟(政元)、重臣(赤尾清綱)、そして戦死した方々に対する鎮魂、地鎮を考えて庭石を配置したと推測した。近江の最大の聖地は多賀大社だと思うが、永平寺法堂と多賀大社本殿とを結んだ線を中央線と見立てると、永平寺から見て中央線のすぐ左側に当寺があり、すぐ右側に青岸寺がある。永平寺の多数の仏像は多賀大社を見つめているが、多賀大社の各建屋、参道は永平寺へは向いておらず、福井県と石川県にまたがる大日山に向いている。多賀大社と大日山とを結んだ線は途中に冠山山頂付近を通過する。これら位置関係から彦根龍潭寺、青岸寺、当寺は永平寺を意識して建立され、永平寺伽藍は多賀大社を意識して建てたと推測した。永平寺法堂と多賀大社本殿とを結んだ線は近江小室藩の領地内を通過するが、この聖なる線上に当寺(小堀家の菩提寺)を建立しなかったのは、永平寺と多賀大社があまりに偉大である故だろう。小堀遠州は遥拝先の風景を庭に画き、遥拝先の気を庭に取り入れた。庭と建屋との関係から見て1965年(昭和40年)書院建屋は元の場所に建てたのだろうが、建屋方向が5°くらい元と異なっているように見える。本来は小堀家安泰を考え東東南方向に久能山東照宮を、南南西方向に熊野本宮大社大斎原を遥拝する方向に書院を建てたと思う。これら遥拝方向に書院を建てたとしても、小谷城跡は近距離なので、西に小谷城跡を拝する方向となる。書院が久能山東照宮、熊野本宮大社を遥拝することで、庭は両宮から見守られた神々しいものであったはずだ。「池泉回遊式庭」は創建当初の庭に少し手が加えられた程度だと思うが、「枯山水庭」は創建当初の雰囲気と大きく違っていると思う。「枯山水庭」を本来の南側の山を見せる借景庭園に戻せば、たちどころに当初の雰囲気が戻ると思う。境内、庭以外の遥拝先を見ると、当寺の参道は曲がりくねっていて遥拝先が判らなくなっているが、書院と山門との位置関係などから書院から山門までの間には伏見奉行所跡に向く参道があったのではないかと思う。山門が大徳寺孤篷庵の方角に建っているので、或いは大徳寺孤篷庵に向けた参道だったのかも知れない。当寺駐車場近くに「素戔嗚命神社」があるが、この直線参道を西に伸ばすと出雲大社にピッタリと到達する。その線上に福井、明通寺がある。「素戔嗚命神社」の社は永平寺に向いている。「素戔嗚命神社」で礼拝することは永平寺に礼拝することに通じている。出雲大社の北緯は35度23分55秒、明通寺の北緯は35度27分12.78秒、当寺の北緯は35度27分25秒、明通寺と当寺とは略同じ北緯に位置する。グーグル地図での測定なので正確ではないかも知れないが小堀遠州の墓は韓国洞華寺に向いているように見える。京都孤篷庵と当寺とを結んだ線は京都圓通寺の庭を通過する。小堀遠州が築庭した正伝寺の「獅子の児渡し庭園」は後水尾上皇が築庭した圓通寺庭園に被せたものだ。その圓通寺のど真ん中を、小堀家の二つの菩提寺、大徳寺孤篷庵、近江孤篷庵(当寺)を結んだ線が通る。よってどちらかの孤篷庵から他の孤篷庵を遥拝することは、圓通寺の庭を遥拝することに通じている。小堀遠州が後水尾上皇作の圓通寺庭園に敬意を示していたことが偲べる。当寺と二条城とを線で結ぶとその線は後水尾上皇がいた京都御所と修学院離宮とを通過する。二条城を遥拝することは京都御所と修学院離宮とを遥拝することになる。当寺のどこかに二条城を遥拝するポイントがあったはずだ。以上の通り小堀家の菩提寺にふさわしい多数の遥拝先を持っていたことが窺える地である。「池泉回遊式庭」は綺麗サビの庭だが、小谷城を地鎮する為に、池を琵琶湖に見立て、琵琶湖をはさんだ彦根城天守閣から見た小谷城を画いたものだと思う。ちなみに永平寺法堂と彦根城天守閣を結んだ線は小谷城、中の丸跡、本丸跡を通過する。築山上の石々は本丸、赤尾屋敷、御茶屋、番所、金吾丸、出丸などをシンボル化したもの、井戸があるところは清水谷、庭の清水谷の出口にある池に隣接する石は織田信長が布陣した小谷城の正面にある虎御前山だと読んだ。「枯山水庭」は綺麗を表現した庭だったはずだ。この庭の高度は147m、南方向は庭先で一旦高度が3mほど下がり270mほど先で同じ高度となり、500mほど南で251mほどの稜線(尾根)に至る。この南側の山の稜線は東から西にゆるやかに高度を下げる。眺望範囲と思える東の高度が364mの峰、西の高度が160m程度。東から西にかけて稜線の高度差は217m~13m、この山は借景になる。借景山には熊野本宮大社大斎原を遥拝する目印となる大木が配されていたのではないだろうか。この南の借景山は永平寺から送られて来た聖なる気が反射する山なので、神々しく見えるはずだ。「池泉回遊式庭」の東は高度356mほどの峰の山裾。庭東側のいずれかの石は霊峰伊吹山遥拝の目印石、いずれかの石は霊仙山(りょうぜんざん滋賀県)遥拝の目印石だと思う。書院東北側の「大刈込の庭」は永平寺に向かって礼拝する庭であったはずで、永平寺礼拝の目印があったはずだと推測した。現在は小奇麗にまとめられているが、ここにしっかりとした庭があったはずだ。庭石が置かれていなかったとすれば大池寺のようにサツキの大刈込を階段状に配し、永平寺礼拝目印を設けていたのではないだろうか。「池泉回遊式庭」池の端に擬人的な顔つきの小さな石灯籠が置かれている。果たして築庭当初に置いたものだろうか。江戸末期、人々は封建制度そのものに辟易したのか庭にふざけたような石灯籠を置いて楽しんだ。その流れかと思ってみたが、これほどの庭にふざけたようなことをするはずがない。小谷城の戦い戦没者を慰霊するために置いたものだろう。小堀遠州の庭は「サビ」「綺麗」が貫かれている。「池泉回遊式庭」は綺麗なサビの庭だと判るが、綺麗な庭は近年作られた山門近くの庭のみ。「枯山水庭」「大刈込の庭」も綺麗を表現していたと思う。当庭園より先に作られた曼殊院庭園にも幹が二股に分かれた樹木群と幹が分かれていない樹木群とがあった。曼殊院庭園には小堀遠州特有の石の周囲にサツキの刈込を配したリンガ的表現があり、薄い石を立て遥拝先を指し示していた。しかしこの庭にはリンガ的表現がなく、薄い石が見当たらない。小堀遠州没後56年目ごろに作庭されたせいだろうか。まとめると書院東南側の本来の「枯山水庭」は永平寺から送られてきた聖なる気を南側の借景山に反射させ、庭先の神々しい借景山を拝むことで永平寺の聖なる気を受けとめ、熊野本宮大社大斎原を遥拝するダイナミックな借景庭だったはずだ。そして多賀大社を遥拝する目印もあり多賀大社への遥拝も行っていたはずだ。庭先の借景山上空のダイナミックな天候の変化を楽しめる庭だったと思う。ひょっとすると南側の借景山にはマツが植えられ、神が降臨するのを待つ意味を込めていたのかも知れない。近江小室藩は領内全域にマツが植えられ、藩領は庭のように美しかったのではないだろうか。小堀遠州が晩年、公金1万両を流用したとする嫌疑がかかったのも、小室藩領が美しすぎたことにあったのかも知れない。書院西南側の「池泉回遊式庭」は久能山東照宮を遥拝する庭でサビ表現がされている自省の庭。小谷城地鎮の目的を備えている。元々の庭が残されているので美しい。書院東北側の「大刈込の庭」を永平寺礼拝庭に戻し、書院から「枯山水庭」を通し南側の借景山を見わたせるようにし、永平寺から送られてきた聖なる気を受け止める借景山を拝める庭にすれば、築庭当初の庭に完全回復できると思った。