天然図画亭庭園(居初氏庭園)

志賀の陣にて二カ月以上、宇佐山城に貼り付いた信長は比叡山に籠る浅井・朝倉軍の兵糧を断つ目的で、坂井政尚ら一千を堅田(かたた)に送り込み、補給路切断を行うも朝倉軍の猛攻を受け大敗した。坂井政尚は長男が姉川の戦いで戦死、本人も堅田の戦いで戦死、(残された次男)坂井越中守は本能寺の変で信忠と共に消えた。その堅田の戦いにおいて地元で織田軍に参軍し、かろうじて船で逃げることができた居初又次郎の子孫の個人邸宅の庭を訪ねた。江戸時代、居初(いそめ)家は堅田の船運を仕切る大庄屋の一員となった。藤村庸軒、北村幽安が居初家のために作った庭は琵琶湖と近江富士を借景とした露地(茶庭)で、師と弟子、上司と部下、先輩と後輩をつなぐ亭主の心構えを画いている。京都の多くの庭のように樹木で借景が消され、庭が語ろうとしているものが判りにくくなっているものとは違い、そのままの姿で息づいている。琵琶湖大津館のイングリッシュガーデンのように琵琶湖を大自然の湖と見せるのでなく、或いは琵琶湖を心字池(心の池)と見せるのでなく、湖面を鏡面と位置づけ、天空の表情を反射させる鏡面に見せている。露地(庭庭)入り口門を潜ると琵琶湖に向け一直線に石を打ち込んだ通路が強烈に脳裏に焼き付く。この通路は琵琶湖に向かって歩くためと言うより、琵琶湖を遠くに感じさせるためのもので、琵琶湖が穏やかだと感じさせるためのものだ。湖面に面した庭東側を石垣とし、琵琶湖と庭を区切り、波音を琵琶湖側に反射させ、波音が庭に入りにくくしている。湖岸に植物を群落のように植え、波音が立たないようにしている。主室内から絵画のように庭、琵琶湖、対岸の近江富士(三上山)などの山々、大きな空を見せ、琵琶湖の波、波音を感じさせないよう主室内の腰高障子の腰板に小鳥、蝶を画き、小鳥のさえずりを感じさせ、風が湖面に吹いていないことをイメージさせながら絵画のような穏やかな風景を楽しませる趣旨となっている。腰板に水を連想させる魚、風を連想させる樹木を画かず、花、草、小鳥、鶏、蝶を画くことで、借景庭を鑑賞し続ける者を儒教の世界へと引きずり込むようにしている。主室内から見た借景庭は天空と庭築山の間に、近江富士などの山々と天の表情を反射する湖面を挟み込んだ構図となっている。この情景を大きく観ると天空は師、手前の築山は弟子、その間に入っている山々と湖面に写った天にて亭主の行う行為と観させている。亭主が(近江富士などの)山々にて(天空の様子を反射している湖面に写った)天を押さえつけた「26山天大畜(さんてんたいちく)」実力涵養の象のように、至誠、真心にて一時、師を押さえつけ、師を育て成長させるといった言動を行った場合、借景庭全体で「57巽為風(そんいふう)」風の如くに従う象となることを見せている。意は亭主が師と弟子の両者間に、正しいこと、大道を見つけさせ、進むべき方向を導きださせるよう茶会を進行させ、両者間で解決策を出させること。この方法にて導き出された策は一見、師と弟子が納得し、両者が親和したように見えるが、往々にして師に亭主と弟子から教育された思いが残り、弟子に大きく譲歩させられた思いが残る。その解決策が双方共に心底受け入れられないことが多い。亭主は双方に大きな道に従うべきこと、大きな道を歩み始めることが肝要であることを説明し続けなければならない。それを語っている。湖面が輝いた時には、亭主の行いは山が(雷のように輝いた湖面の)雷を押さえつける「27山雷頣」食し養う象のように、亭主は自らの言語をできるだけ慎み、節度を保った言動にて、師と弟子の話を良く噛みくだき、両者の説明を正しくまとめるように行えば、借景庭全体で「59風水渙(ふうすいかん)」風、水上を行く象となることを見せている。意はこれまで師と弟子の関係は強固だったのに、波立ち散乱しようとして行く状態を浮かび上がらせ、師と弟子の双方に危機感を覚えさせ、師が弟子の心をひきつけるように持って行き、両者の関係を修復させるように茶会を進行させるべきことを優雅に表現している。日本文化の真髄を表現している日本の宝である邸宅と庭園が生き続いているが、庭の東北に、これほど立派なモッコクを他で見ることができないのではないかと思えるほどの巨木があり、鳶が巣を作り茅葺屋根を守っている。伊吹山と吉田山を結ぶ神の通り道の下、(敦賀)気比神宮本殿と(奈良)海龍王寺を結ぶ神仏の通り道の下に邸宅庭園があるので、神佛に守られている。庭には神の着座石もある。建屋は気比神宮本殿と(奈良)海龍王寺を遥拝し、東方向には(有楽流を始めた)織田長益が築城を始めたが本能寺の変で中断した(尾張)大草城を遥拝している。