大池寺

小堀遠州の樹木庭園

庭めぐりを始め150箇所以上の庭をじっくりと鑑賞し、少しは庭のことが判るようになったと自負していた頃、ここ大池寺(だいちじ)書院東「蓬莱庭園」においてサツキで作った七福神の宝船を見て打ちのめされた。次に書院西の大きくなる木を小さく育て背後の山裾との対比で大きく見せる「土蔵と蓬莱山を見せる庭」を見て再び打ちのめされた。庭石はごくわずかにしか使わず樹木を自在にあやつり、白砂、借景の山裾だけで超一流の庭を成立させている。小堀遠州の技量、芸術力の高さに敬服した。単に樹木と白砂と借景だけでこのような美しい庭が作れるはずがない、遥拝による人の思いが加わっているはずだとも思った。今回、それを確かめたく再訪したら、中国人観光団の観光ルートの一つとなっていた。樹木で表現した弁財天ら七福神が中国人観光客を引き寄せているのだろう。サツキの大刈込にて七福神を画き、それを御神体のレベルまで引き上げた庭が他にあるのだろうか。地図上で石清水八幡宮本殿の南側と上野寛永寺弁天堂とを線で結ぶと大池寺を通過した。上野寛永寺の弁天堂(八角堂)の北と南の縁はピッタリと石清水八幡宮の方角に一致している。弁天堂東側の礼拝所とその参道も石清水八幡宮の方角に向いているので、参道を弁天堂に向い歩き参拝、礼拝することは石清水八幡宮本殿、そしてこの大池寺に向かって歩き礼拝することにつながっている。よってこの庭の宝船に乗る七福神は、上野寛永寺の弁天堂にいる弁財天(辯才天)が空を飛び、他の6神を連れ、この庭に舞い降りてきた意味にとれる。逆に当大池寺の書院側の礼拝石から七福神を拝むことは上野寛永寺の弁天堂を遥拝することに通じている。上野寛永寺の弁天堂から庭の宝船までの距離は336.28㎞、宝船から石清水八幡宮までの距離は44.57㎞、比率は336.28:44.57㎞=7.54:1要約すると7対1と読めないこともなく七福神の七と一致する。ここ大池寺にも弁天堂があり、寺の西側の池の名は弁天池となっている。次に大池寺の東西に長細く伸びる建屋群の方向を調べると、すべて東の久能山東照宮を遥拝していた。書院から建屋方向に沿って「蓬莱庭園」を鑑賞することは久能山東照宮を遥拝することにつながっている。さて上野寛永寺の本坊は1625年(寛永2年)に建立、法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などは1627年(寛永4年)に建立、清水観音堂、五重塔などは1631年(寛永8年)に建立されている。弁天堂の建立も寛永年間なので、弁天堂建立の際に、天海大僧正(1536年~1643年)が石清水八幡宮本殿と上野寛永寺との線上に大池寺があることに気付き、寛永年間(1624年~1645年)において小堀遠州(1579年~1647年)に大池寺の庭を作らせたと推測した。天海大僧正が石清水八幡宮本殿と上野寛永寺との線上にある大仏を安置する大池寺を重視しないはずがない。もしここに「蓬莱庭園」を造らなければ、寛永寺弁天堂での礼拝が当寺の大仏(釈迦如来坐像)を拝むことにつながってしまう。江戸幕府のトップ作庭家である小堀遠州に作らせた理由が窺える。当寺で安置される大仏、本堂など建屋群及び本堂への参道を地図で見ると略南北方向を貫いている。東大寺の大仏(毘盧遮那仏)、鎌倉高徳院の大仏(阿弥陀如来仏)と同様、大仏の目線の先に聖地はない。背後には聖地が控えている。東大寺大仏殿の背後には比叡山根本中堂がピッタリと控えている。鎌倉高徳院の大仏の背後には会津鶴ヶ城、会津藩主松平家墓所が控えている。ここ大池寺大仏の背後には琵琶湖に浮かぶ多景島、見塔寺が控えている。東大寺、鎌倉高徳院には三尊石などを擁する大きな石組み庭は無い。他の大仏を擁する寺院の方角や寺境内をチェックした訳ではないので断定できないが、大仏の目線の先に聖地があってはいけない、大仏を安置する寺境内に三尊石石組の庭を作ってはいけない決まり事があったように思える。よって小堀遠州は大池寺の吉祥の庭に石の多用は不適当だと判断したのだろう。サツキの大刈込で宝船と波を表現し、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)を表現した。白砂は反射させる意があるので上野寛永寺と石清水八幡宮とは情報を交換し合う、一体の間柄である意を表現したのだと思う。書院東側の「蓬莱庭園」は北から東側に迫る山を借景とし、手前が白砂、次にサツキの宝船、その背後に波打つ大刈込が2段、更にその背後の山裾にこれでもかと言うほどにツバキを植樹している。サツキの大刈込のすぐ背後にカエデが幾本か植樹されている。古木となったイヌマキ、風格あるモッコクがある。庭の右側(南の建屋側)にもサツキの大刈込があり、その後ろは建屋を目隠しするイヌマキの大刈込となっているが、こちらの大刈込に波は付けられておらず壁としている。庭の左側(北の山側)はサツキで大刈込が2段、その背後はイヌマキ、ツバキ、ヒノキなどを組み合わせた大刈込が1段、計3段となっている。3段目の大刈込の背後、山裾にも多数のツバキと幾本かのカエデが植樹されている。山側の計3段の大刈込には波がつけられ、大波が西に続いているように見せている。ツバキの数は多いが、カエデは数が抑えられ剪定がされている。庭園内に築山をせず、石をほとんど使わず、樹木だけで庭を成り立たせている。樹木ばかりの庭の中で亀島を表現するために用いた小さな石が可愛く見えてくる。久能山東照宮の方向から昇る太陽をイメージする程度にカエデの本数を限定し、剪定することで庭を赤く染め過ぎない工夫が見える。書院角にモッコクとモチノキ、蹲踞、そして小さな蹲踞石を立て火袋に障子紙を貼り石灯籠風にしたものがある。綺麗なものを切り取って来る古田織部の技法の発展形だ。蹲踞の左側、書院の北側にウメの幹が見える。前回来た春先、書院の北側の窓に近づき窓際からウメの木を見上げると庇の上に伸びた枝に赤ピンクの蕾がついていた。蹲踞、モチノキ、モッコク、ウメの背後には先ほど述べたサツキの大刈込が伸びてきている。その大刈込背後にイヌマキ、ツバキ、ヒノキなどを組み合わせた大刈込の1段が伸びて来ていて、計2段の大刈込が書院西側の庭につながっているように西方向へ伸びている。庭の左端にはタイサンボクだと思うが花が綺麗そうな樹木が植えられている。蹲踞周囲をウメ、タイサンボク、モチノキ、モッコクなどで囲んだせいか小堀遠州独特の明るさを感じる。蹲踞に満たされた清水はサツキの大胆な大刈込で作った宝船(七福神)に対し、心を清めて見る意味が込められていて清清しい。綺麗な水にて庭の美しさが心に沁みるよう演出されている。庭に多く植えられたサツキ、カエデ、ツバキが季節の移り変わりを明確に見せてくれる単純さも良い。四段の大刈込の背後のツバキ群は種類が多い。中には凛と立っているツバキもあり、それぞれのツバキが個性を発している。借景の山にヒノキなどの大木がそびえ立っている。樹木に囲まれた庭だが、庭の右側(南側)、建屋の上空部分はポッカリと開いている。ここから太陽光が庭に十二分に降り注いで来る。太陽光が白砂に反射し庭内の樹木を照らし、季節ごとの葉の色や花を鮮やかに見せている。庭中央にあるサツキを刈り込んで作った宝船と七福神に、上下から十二分に太陽光が注がれ、宝船と七福神が浮かび上がるように設計されている。頼久寺庭園のような庭の中に大きな掘り込みがない。江戸庭園定番のマツが見当たらない。なぜだろうか。松には神が下りて来るのを待つ意味がある。宝船そのものが神を表現しているので、あえて植樹しなかったのだろう。神の庭に掘り込みはふさわしくないので掘り込まなかったのだろう。書院の西側「土蔵と蓬莱山を見せる庭」は蔵、山に囲まれた露地となっている。樹木の宝石箱のように見える。ツバキ、モッコク、サツキ、イトヒバ、マツ、イヌマキ、ドウダンツツジ、スダジイ、モミ、モチノキ、カエデなど大木になる木を小さく育てている。その他ヒノキ系など多くの樹木があり、足元には大きくならないマンリョウを配している。これだけの種類の樹木をまとめあげ宝石箱のように見せるテクニックが凄い。「蓬莱庭園」との違いはこちらに庭にはカエデの葉をわずかにしか見せていないこと。この庭は真っ赤に染めない工夫がされている。石清水八幡宮を遥拝する庭なので石清水八幡宮に似合わない血染め色を付与しない工夫だと思う。北側の山からシラカシなど多数の大木が庭に迫って来ている。火袋の無い背の低い石灯籠がサツキの大刈込の中にポツンと一つ置かれている。小堀遠州らしい演出だ。書院に隣接した茶室には躙り口があったはずで、躙り口があった付近に蹲踞がある。そこにも主庭と同じように蹲踞石を立て石灯籠に見立てている。この庭の樹木は皆小さく育て、サツキの中の石灯籠、蹲踞を立て石灯籠に見立てたものも小さいが、庭が小さいとも石灯籠や樹木が小さいとも感じない。遠近法を巧みに使い小さい木々、小さい石灯籠をじっくり見せることで心の中で大きな存在として見せ、庭を広く大きく見せている。多品種の大きくなる樹木を狭いところに押し込んで小さく育てた効果なのだろうか頭の中で庭が大きく膨らむ。背後の山の大木を少し離れた距離とすることで、手前の小さな木々が小さく見えない。小さいものを手前に置き、背後の大きな山にて手前の小さなものを大きく見せている。飛び石の両側に一対の松を植えているが、石清水八幡宮の神々が降臨されるのを待つという意味なのだろうか。庭の手前の右端にサルスベリが1本植えてある。建屋内からは幹だけが見え屋根の上で花を咲かせている。茶会を終え書院に戻ってくる人のためのものだ。気配りを感じる。江戸時代の方々は我々現代人よりも感性が鋭かったので、主庭「蓬莱庭園」を見た後、この「土蔵と蓬莱山を見せる庭」を見た方々は我々以上に二度目の衝撃を受けたことだろう。一つ気になったが「土蔵と蓬莱山を見せる庭」は築庭当初から白砂を敷いていたのだろうか。「蓬莱庭園」が陽の庭なので、こちらは陰の庭。真っ白な土壁を持つ土蔵が有るので、飛び石周囲に白砂を敷かない方が、庭の深みが増すと思う。「蓬莱庭園」との連続性を感じさせる長いサツキの大刈込があるので、白砂を敷かなくとも「蓬莱庭園」との連続性は感じる。書院から踏み石に下り、露地に入り茶室へ向かう人は白壁の土蔵方向に伸びるサツキの大刈込にて「蓬莱庭園」の感動を胸に背後の「蓬莱庭園」から押されるように茶室に向かわされる。白砂が無い方がそれをより感じられるように思う。江戸時代の露地は深山幽谷の表現を目指していたのでコケ面の方が似合う。露地に雪隠に使う白砂を敷くこともなかったのではないかと思った。「蓬莱庭園」は白砂のイメージが強い。「土蔵と蓬莱山を見せる庭」はコケ面とし地面の匂いを楽しめるようにすることで、頼久寺庭園の庭の掘り込みにて地面の匂いをイメージさせるのと同じ効果がある。茶室に向かう際に土の匂いを感じさせる方が、心に沁みる庭となるのではないだろうか。書院の東西の庭を比較すると「蓬莱庭園」にはマツがなくカエデがある。こちらの庭にはマツがあるがカエデがほとんどない。「蓬莱庭園」は白砂と造形美豊かな大刈込で綺麗を、「土蔵と蓬莱山を見せる庭」は苔面と多数の樹木で「さび」を表現している。二つの庭は書院から同時に鑑賞してこそ思索の世界に遊べる。そして二つの庭を心に沁みこませることができる。庭が演じる光の変化によるドラマを楽しめる。もし江戸時代の資料が残っていて、「土蔵と蓬莱山を見せる庭」に白砂を敷いていたかどうかの調べが付き、白砂を敷いていなかったことが判明すれば白砂を撤去するのも良いかも知れない。この「土蔵と蓬莱山を見せる庭」は石清水八幡宮を遥拝する庭。次の写真では遥拝目印は本堂、もしくは白壁の土蔵左手前の鶴をイメージしたマツとなっている。「蓬莱庭園」は忠実に修復されたようだが、こちら「土蔵と蓬莱山を見せる庭」は少し修正されているようにも思う。上記、「蓬莱庭園」と「土蔵と蓬莱山を見せる庭」以外に、大仏殿に至る渡り廊下で囲まれた井戸(佛母井)を中心とした庭がある。サツキの大刈込があり、マツ、ドウダンツツジ、モチノキ、マンリョウなどが小綺麗に規則正しく植えられ育てられている。整然とした庭で、思想性あふれる「蓬莱庭園」と「土蔵と蓬莱山を見せる庭」とは違い地下に通じる井戸がある清潔な神聖な庭となっている。まとめると、ここ大池寺「蓬莱庭園」において小堀遠州は極力、石を使わず樹木だけで弁才天(弁財天)を表現し、弁財天らが乗る七福神の宝船そのものをご神体として見せた。実に神々しい庭となっている。書院に沿って東を拝むことが久能山東照宮を拝むことにも通じている。書院の礼拝石からサツキで作られた宝船を拝むことが上野寛永寺の弁天堂を拝むことにも通じている。弁才天は弁財天に通じるので、中国人に好まれることも面白い。平和な源氏の世を確立させようとする天海大僧正の思いを表現しきった小堀遠州の芸術力が凄い。