安土城

織田信長の躍進(11)

特に天守及びその周囲の城壁(石垣)は髑髏を積み重ねたように妙に白く輝いている。安土城址全域が摠見寺の所有となっているからか、築城に多くの転用石を使ったからか、多くの人を殺害した信長が築城したからか、石垣が大木の日陰で冷たく感じるからか、その理由は読めないが、安土城の石垣は死を表現している。信長は天守閣で自身を表現し、天守閣に居住することで、近江の住人、近江を通過する人々、琵琶湖を往来する人々に、天守閣を仰がせ、天下人となった信長を遥拝させた。その天守を支え、天守を守る石垣が死を表現しているので、天守は死の世界の中にある。信長は死の世界にある天守に住むことで殺害した人々と共に暮らし、弔おうとしたのだろうか。現在は多くの樹木で覆われているため安土城の本質が封印されているが、岐阜城と同じく神のような信長を表現し、皆が信長に従うように説くための城であった。安土城は防衛をあまり考慮しない見せるための城なので、信長には安土城を天下統一後の幕府所在地にする意図はなかったはずだ。もし幕府所在地とするならば、戦争防止、一揆防止のため、攻める気にならない城としたはずだ。信長は安土城を信長信仰の宗教的な聖地とすることを考えていたのではないのだろうか。信長の天下布武は日本だけを対象としない世界を統一しようとする宣言で、キリスト教のように世界中に信者を持ち、世界の民を宗教でまとめる意図をもって安土城を作ったのだと思う。しかし、日本人は日本古来の神を敬い、神とつながる天皇を敬うので、安土城宗教構想をあきらめた。或いは明智光秀によってあきらめさせられたということだろう。本能寺の変後、すぐに天守付近だけを焼失させたのは、信長宗教構想を消滅させるためだったと思う。信長は長島侵攻作戦で3万人の一向宗信者を殺害するなど多くの残忍なことを行ったが、本能寺の変で共に消えた(嫡男)信忠、(五男)勝長、二人以外の子たちはその後、ほとんどが徳川家に召し抱えられている。勝長の子は加賀藩士としてつながった。信長の兄弟についても本能寺の変で信忠と共に消えた(信長の末弟)長利以外、信長の子たちと同じようにほとんどが徳川家に召し抱えられている。(庶兄)信広は、1556年、信長に対し謀反を画策した。謀反が発覚するが、信長は信広を許している。第三次長島侵攻で戦死した。(同母の弟)信行が1558年、謀反を画策したので、信長は清洲城で殺害した。信長は信行の長男、信澄を優遇した。信澄は粗暴だったため本能寺の変直後(信長の三男)信孝に討たれたが、(信澄の長男)昌澄は豊臣家に仕え大阪城で徳川軍と戦うも戦後、徳川宗家から2,000石の旗本に取り立てられた。(信行の次男)信糺は(信長の次男)信雄に仕えた後、蜂須賀家政に1,000石で召し抱えられた。(信行の三男)信兼は兄、信澄を討った信孝に仕えた。信孝は岐阜城で秀吉軍(包囲したのは織田信雄)と戦い負け自害させられた。信兼は殉死した。(信長の9歳下の弟)信包は柏原藩主(3.6万石)となった。3代で男子なく柏原藩は改易となったが、信包の3男、信則は徳川宗家に高い石高(3,000石以上)で召し抱えられ家名存続した。(信長の10歳下の弟)信治は宇佐山城の戦いで戦死する。子孫は徳川幕府の旗本となった。(信長の13歳下の弟)長益は本能寺の変の際に二条城にいたが、誘導されて逃がしてもらったような逃げ方をし、関ケ原の戦い後、3万2千石の大名に取り立てられた。次男と三男にそれぞれ1万石を分割譲渡、この2藩は明治までつながる。長益が創設した茶道、有楽流は(信長九男、信貞の次男、1000石の旗本)貞置が長益の嫡男系列から継承した。(信長九男、信貞の長男の子で尾張藩4000石の旗本)貞幹が尾州有楽流を立て有楽流を継承した。以上のように弟たちも徳川家から信長の子供と同じように大名、高級旗本に取り立てられている。信長と家康の密約がなければ、このような思いやりある受け入れはなかったはずだ。信長は子供や兄弟に対し温かく接していたようなので、決して残酷なことを好む人ではなかったはずだ。諏訪大社上社本宮と(京都)豊国神社・方広寺を結んだ線は安土城羽柴秀吉邸跡付近を通過するので、秀吉は方広寺を作る際に安土城を意識していることが読める。秀吉にとって信長は神のような人であったのだろう。