虎御前山城

織田信長の躍進(10)

姉川の合戦の2年後1572年(元亀3年7月)、信長は小谷城の西南向かい、わずか500mしか離れていない虎御前山(標高224m)に城を築いた。小谷山標高は495mだが本丸、小丸より少し高い所にある山王丸の標高が398m。小谷山城下の標高が96mなので、虎御前山城本丸と小谷城山王丸の高低差は約倍、しかし虎御前山城本丸から山王丸まで直線2.6㎞もあるので、小谷城を見上げているといった感じはしない。この城は信長が小谷決戦の指揮をとるために作ったのだろうが、多くの人に観戦してもらうのが主目的だったと思った。虎御前山頂上(本丸)から姉川の戦いが行われた野村橋まで約6.1㎞、姉川の合戦を振り返ることもできる。流れ弾が届かない、よく観戦できる虎御前山城本丸から小谷城の戦いを報道者に見せ、織田軍の強さ、浅井・朝倉を滅ぼしたことを宣伝する目的があったのではないだろうか。1573年(天正元年8月)小谷城の戦い途中に行われた朝倉氏を滅ぼす刀根坂の戦い、一乗谷の戦いを含めたこれらの戦いは信長軍勝利確実な詰め戦だった。小谷決戦には信長の嫡男、信忠が初陣した。約3年余り前、信長との同盟を止め、信長と敵対することを決断した浅井久政、長政親子を自害させるための決戦なので、浅井親子の意地を見ることができ、戦いが激戦となることが予想できた。信忠の教育のため、あえて満16歳ごろまで戦場に連れて来ず、浅井親子が命がけで守る小谷城での決戦を初陣として選び、戦いの本質を教えようとしたのだろう。嫡男教育のために虎御前山城を作ったと言えるのかも知れない。信長は(嫡男)信忠を自身が教育したが、次男から五男までを養子に出し、他所の家に教育してもらった。(次男)信雄は満11歳ごろ北畠家の養嗣子となった(江戸時代になると家康は格式にこだわる必要がない比較的気楽だと思える5万石の大名に取り立てた。信雄の四男の系列、五男の系列は大名として明治まで続いた)。(三男)信孝は満9歳ごろ神戸家の養嗣子となった(本能寺の変の後、秀吉と敵対し自害した)。(四男)秀勝は満8歳ごろ秀吉の養子となったが若くして病死。(五男)勝長は満10歳ごろ遠藤家の養子となった(本能寺の変では信忠に同行した)。息子たちへの教育を見る限り、信長は子供たちを甘やかすことなく育てたと読める。六男以下は養子に出されていないが、本能寺の変の天正10年時点で六男以下はみな子供だった。(七男)信高の息子、高重は後に2,000石の旗本になった。(八男)信吉の孫は京極高国の家臣となった。(九男)信貞の長男の子、貞幹は尾張藩4000石の家臣となった。信貞の次男、貞置は徳川本家高家旗本となり子孫が継続した。その分家も旗本として続いた。信長は子孫たちが徳川家康に取り立ててもらえるようにしていたことが読める。子孫は比較的気楽な石高の低い大名、高級官僚、高級サラリーマンとなっているので、信長は子孫繁栄を考えていたことも読める。小谷決戦は信長、信忠、そして多くの報道員が観戦している中で進行したことが予想できる。出世願望の強い秀吉が、目立つように待機命令を無視し、浅井久政が守る小丸と浅井長政が守る本丸をつなぐ京極丸を夜中に奇襲したことで戦いが始まる。すぐに京極丸を占領したが秀吉の奇襲部隊は1個大隊程度(600人)だったので、すぐ総攻撃を開始しなければ秀吉隊が殲滅される恐れがあり、信長はすかさず総攻撃を命令、先ずは小丸を落とし、次いで本丸を落とした。浅井親子は自害した。前年7月、信長は槙島城を陥落させ事実上、足利幕府を滅亡させ年号を天正に変えさせていた。朝倉氏と浅井氏を滅亡させ、顕如との10年戦争を詰める目途をつけた。翌年天正2年には長島城を陥落させ長島一向一揆衆3万人を虐殺し、顕如の責任を追及できる優位な立場に立った。天正3年に長篠の戦いに勝ち、強い武田氏を滅亡させる道筋をつけた。いよいよ安土城を築き (日本政治の中枢部をまとめる) 天下統一事業の最終局面を迎えるまでになった。信長の功績は①宗教団体に武器を捨てさせ武力で政治介入させないようにしたこと。②守護職制度とそれを操る足利幕府を消滅させたこと。③徳川幕府の時代を考えたような、中央集権政府を妨げる恐れのある勢力を排除したこと。信長はこれらを成し遂げた直後に嫡男、五男、末の弟、忠臣たちの息子たちと共に清く消えた。対し、(隣国)明朝を作った朱元璋は皇帝就任後の30年間で、数万の官吏ら知識人、富豪(大商人)、兄弟のような功労者たち、大した罪を犯していない人までも死罪にし、恐怖の明朝(276年間)時代をスタートさせた。東アジアの平和と中国民のために明朝は崩壊させるべき朝廷だった。信長が消えた後、一番問題を起こす可能性があったのは(信長が清洲城で殺害した一つ下の弟の長男)織田信澄だった。信澄は(信長嫡男)信忠より2つ年長だが、信忠の下で本願寺を攻めた。大坂から本願寺が退去した後、本願寺跡に入り常駐した。信長の命とは言え、検地に逆らった槙尾寺(施福寺)の僧侶800名を皆殺しにするなど極めて残酷なことをする暴れ者だった。正室が明智光秀の娘なので、本能寺の変を起こした光秀の共犯者と疑われ(信長の三男)信孝と丹波長秀によって討たれた。信長は問題行動を起こす可能性がある信澄を自身が去った直後に消し去る段取りを組んでいたのではないだろうか。ちなみに信澄の次男、信高は徳川宗家に2000石の旗本として取り立てられている。家康は織田家の各位を温かく迎え入れている。