姉川の合戦跡

織田信長の躍進(7)

金ヶ崎の戦いに3万の軍が京都を出陣したのは永禄13年4月20日(西暦1570年5月24日)、金ヶ崎城を占領するも朝倉、浅井の挟み撃ちに会い織田軍は撤退。信長が10名ほどを従え京都に退避したのが4月30日(西暦6月3日)。5月9日、信長は軍を立て直すため京都を立ち、北伊勢経由で5月21日岐阜城へ戻る。非常に素早い行軍だ。対し朝倉軍は岐阜城に戻る信長軍を討つべく5月11日、敦賀から近江に軍を出すも信長軍を捕捉できず、甲賀で南近江奪還を狙っていた六角義賢と連携し信長軍を挟み撃ちにしようとするも、6月4日、六角軍は野洲河原の戦いで柴田勝家、佐久間信盛の軍に敗れてしまう。朝倉軍は美濃との国境の長比城、苅安尾砦を修築し織田軍の来襲に備えたのち越前まで軍を引いてしまう。しかし信長はすぐに両城砦を調略し陥落させてしまう。6月19日、信長軍は岐阜城を出陣、長比城に入城し、6月21日、姉川の南にある横山城を5千で囲み、本軍は姉川を超え小谷城の目前、虎御前山に布陣、小谷城の城下町を焼き払う。翌日、簗田広正、中条家忠、佐々成政(兄は信長の甲冑を着ておとりとなり桶狭間で戦死。長篠の戦いでは鉄砲隊3000を率いた)に鉄砲隊500、弓兵30を置き殿軍とし、信長軍は姉川の南に移動し竜ヶ鼻に布陣した(推測だが信長軍の移動は夜で、虎御前山から鉄砲と弓で小谷城を攻撃し夜襲総攻撃と思わせ、本軍を安全撤退させたのかも知れない)。そこに徳川家康軍5千が合流し総勢約2万で姉川の北岸を睨んだ。丹羽長秀ら5千は引き続き横山城を囲んでいた。浅井方にも朝倉景健率いる8千の援軍が到着し大依山に布陣。これに浅井長政1万が加わり1.8万で姉川の南岸を睨んだ。6月27日、浅井朝倉連合軍は一旦陣払いし退却したが、翌28日未明、姉川を前にそれぞれ分かれ野村に浅井軍が、三田村に朝倉軍が布陣した。これに対応し織田徳川連合軍は竜ケ鼻から前進し、織田軍は姉川を挟んで浅井軍に向かい合う(竜ヶ鼻すぐ近く)陣杭の柳に、徳川軍は姉川を挟んで朝倉軍に向かい合う岡山に陣を移動させた。聖山、伊吹山を背景に、姉川を挟んで睨み合う両軍、双方の兵員数は拮抗し、決戦にふさわしい形になった。梅雨の季節なので地面は柔らかったのではないだろうか。午前6時頃、戦闘開始。浅井軍は先鋒に遠藤直経を立て、姉川を超え烈火の如く信長軍に突撃した。柴田勝家隊が押され、徐々に信長軍は崩れ出す。朝倉軍と徳川軍も一斉射撃の後、姉川で一進一退の戦いに突入する。朝倉軍は兵力差で徳川軍を押して来た。不利となった徳川軍は故意に軍を少し引き、朝倉軍に姉川を超えさせ陣形を伸びきらせた上で、側面攻撃を開始。朝倉軍を崩し、朝倉軍が姉川を背にした不利な体勢になるように持って行く。信長本軍は13段の防衛線が11段まで破られる。劣勢となっている状況を知った横山城を包囲していた丹羽長秀ら5千も駆け付け、防戦にあたる。徳川軍の善戦で朝倉軍が総崩れとなり、且つ信長軍に丹波長秀の援軍が到着するのを見た朝倉軍は退却を決断する。朝倉軍の退却後、信長軍は徳川軍に浅井軍への側面攻撃を求めた。徳川軍の側面攻撃で戦況は変わり、これ以上の進撃は無理と見た先鋒の遠藤直経が浅井軍の首を持ち仲間と見せ信長近くまで近づいたが、遠藤直経と見抜かれ捕捉され殺された。朝倉軍は総崩れし撤退を決断。織田・徳川軍が1,100余りを討ち取り勝利した。双方合わせ約2,500名の戦死(死傷者3,000余名)と伝わるので、信長本軍が一番多くの犠牲者を出したようだ。強い者同士の戦いは意外と戦死者が少ない。信長は頑強な浅井本軍と横山城の浅井軍に挟み撃ちされることを嫌ったのか追撃はごく僅な距離で(せいぜい浅井、朝倉の陣まで)、深追いせず横山城下まで後退した。まもなく横山城が降伏。木下秀吉が城番として横山城に入った。姉川の戦いで織田信長は横山城を手に入れることができた。その結果、小谷城と佐和山城との交通が遮断でき、佐和山城を兵糧攻めでき、翌年2月、佐和山城攻撃で降伏させ、佐和山城も手に入れ、信長は岐阜城と京都の最短道を手中に入れた。一方、朝倉義景は姉川で決戦が起きると認識していなかったのか、自らが出陣せず、義弟を総大将として派遣、十分な兵力を持たせず負けさせてしまう。この年の秋、志賀の陣で決戦直前まで行くが軍を比叡山に籠らせ決戦を避けてしまう。その後もずるずると決断を先延ばしにする朝倉義景の行いが、朝倉氏、浅野氏の家臣たちに信長の調略に乗せてしまい、1573年(天正元年)朝倉氏、浅野氏の滅亡に向かわせた。女性に溺れた名門家、朝倉義景に自らを生かすため自らが大損失を被らなければならない決断など無理だったのだろう。姉川の戦いは家康軍がなければ信長軍は敗退していた。信長が信頼したのは三河、尾張、美濃の出身者で、明智光秀と細川藤孝(細川幽斎)は例外だったと伝わっているように、この戦いに勝ち信長の天下統一事業を大きく前進させた参戦者は尾張、三河、美濃の出身者がほとんどだ。江戸時代の7割の大名が三河(愛知県の東)出身者と言われているように、尾張、三河、美濃の出身者が天下統一事業を行った。例外と言われる明智光秀の出身地も美濃と伝わる。本能寺の変は信頼し合った同郷同士が行った自作自演劇という見方ができないのだろうか。