教林坊

聖徳太子が創建したと伝わる当坊は多くの歴史が眠る繖山(きぬがさやま)頂上(観音寺城跡)から東南、直線約1km地点の南側ふもとにある。当地には百済人移住伝承があり、東約11km地点には聖徳太子が開基した百済寺がある。当坊から見える箕作山、その一峰(東南3km)には聖徳太子の出現以前、欽明天皇時代に祭祀が行われていたと伝わる中国山岳寺院に似た阿賀神社(太郎坊宮)があり、そこにも聖徳太子伝説がある。箕作山の中腹(東南2.4km)瓦屋寺にも聖徳太子創建と四天王寺に納入する瓦を焼いた伝説がある。きぬがさ山においては頂上付近にある当坊門派上部だった観音正寺(北北西0.75km)、山の東側(北2.5km)石馬寺にも聖徳太子創建伝説があり、山の北側(北北東4km)の善勝寺は聖徳太子が開いた霊場が起源だと伝わる。当地に多くの聖徳太子(厩戸王)伝説があるので四天王寺建立(593年)以来、きぬがさ山周囲は戦略重要地だったことが推測できる。西約3kmには宇多源氏の子孫、佐々木氏の氏神、沙沙貴神社があり本殿、権殿は西に(対馬)和多都美神社、東に当坊すぐ傍(西北西0.27km)日吉神社を遥拝している。きぬがさ山の西側(西北1.37km)桑実寺は天智天皇の勅願、藤原鎌足の長男が創建、1532年(天文元年)から3年間、室町幕府12代足利義晴将軍が仮幕府を設置した。1568年(永禄11年)には義晴の息子、第15代足利義昭(最後の)将軍も滞在した。その方角には安土城天守閣跡がある(西北3km)。きぬがさ山の北側山腹(北3.4km)繖峰三神社では毎年5月4日に800年以上の歴史がある伊庭の坂下し祭(奇祭)が開催されている。東北約3.3kmの五箇神社は本殿正面及び参道が当坊に向いており、本殿は反対方向の槍ケ岳頂を遥拝している。当寺のすぐ南側に中山道があり、今なお当地に江戸時代の雰囲気が漂っている。観音寺城は応仁の乱(1467年~1477年)で3度の攻防戦、その後3度の戦闘があり、1568年(永禄11年)織田信長の進攻(観音寺城の戦い)で(六角氏が)城を放棄、廃城となった。観音寺城の戦いの主戦場となったのは当坊の眼と鼻の先、東南東約1.8km地点にある箕作城。戦で当坊は衰亡するが1585年(天正13年)再興され、1597年(慶長2年)観音正寺が山頂付近に再興された。明治になって観音正寺の10坊の中で唯一、当坊だけが消滅せず、その後、観音正寺から独立した。1975年(昭和50年)から20年間荒廃したが再復興された。小堀遠州作の庭が現在まで伝わっているのは神のご加護によるものだと思い、グーグル地図で神の通り道を捜した。多賀大社本殿と三上山(近江富士)頂上にある御上神社奥宮を結んだ線は境内の総門北側を通過した。伊吹山頂上と(奈良)成務天皇狭城盾列池後陵中心を結んだ線は本堂を通過した。(対馬)海神神社と鶴岡八幡宮本宮を結んだ線は境内の書院北側を通過した。出雲大社本殿社と百済寺本堂を結んだ線は境内の総門北側を通過した。ブッダガヤの大菩薩寺へ向かう方向に伸びる参道入り口の熱田神宮西門第一鳥居とブッダガヤの大菩薩寺を結んだ線は当坊境内の書院北側を通過した。日光東照宮御本社と勧修寺宸殿を結んだ線は境内の書院北側を通過した。書院はこの遥拝線に沿う方向に建っている。沙沙貴神社と名古屋城天守閣を結んだ線は書院を通過した。勧修寺庭園の島(緑鴨州)と諏訪大社下社秋宮を結んだ線は庭外側の山中を通過した。以上のように多くの神の通り道が交叉している。庭中心になっている石塔は神の降臨を願うために置いたのだと思うが、その周囲が平地になっており、書院、本堂から見てこの平地は丘の上にあるので神殿跡のような雰囲気を持たせるためか、奉納の舞(巫女舞)にて神を巫女に宿らせるためか、巫女舞を連想させるために平地としたように見える。建屋が樹木で覆われているのでグーグル航空地図で書院の一部しか確認できなかったが、書院は西北方向の観音寺城跡を遥拝している。西南方向には(京都)醍醐天皇山科陵を遥拝しているように見え、東北方向には諏訪大社下社春宮、もしくは諏訪大社下社秋宮を遥拝しているように見えるが、上述のように勧修寺宸殿と日光東照宮御本社を結んだ神の通り道に沿う方向に書院が建てられているので、書院は勧修寺と日光東照宮を遥拝していると読むのが自然だ。書院内から山水掛け軸に見たてた庭は日光東照宮を背に勧修寺を遥拝するため、書院と略同じ方向を向く本堂は勧修寺を背に日光東照宮を遥拝するためにあり、本堂で本尊を拝むことは観音寺城跡を拝むことに通じさせていると読んだ。庭は小堀遠州作と伝わる庭(書院西面の巨石からなる豪快な庭)と、室町時代作と伝わる普陀落の庭(書院南面にある三尊石組の小さな庭)からなる。小堀遠州作と伝わる庭の鶴石は東から昇る太陽を拝む姿なので、東の名古屋城、熱田神宮の方角から昇って来た太陽を受け止め、神の通り道に沿い名古屋城もしくは熱田神宮に向かって飛び立つ姿だと解釈できる。鶴石の前に普陀落の庭があるが、平たい石をサークル状に置いているので神の着座席のようだ。庭の名前から普陀落を連想させるので、普陀山がある(中国舟山)普済禅寺と書院を線で結ぶと(京都)吉田神社内の菓祖神社、京都御苑東南端、二条城黒書院を通過した。多重遥拝線となっているので、普陀落の庭から見た鶴石は普済禅寺への遥拝目印なのかも知れない。熱田神宮西門第一鳥居とブッダガヤの大菩薩寺を結んだ線も当坊を通過するので、観音菩薩に光臨してもらう意味で普陀落の庭と名付けたのかも知れない。スギなどの背の高い木々、カエデで囲まれた庭の中に巨岩、巨石、大きな石があり、その表面が綺麗な苔で覆われているので、まるで戦乱に明け暮れた当地を鎮魂する祈りに包まれた庭のように見えるが、庭中心となっている石塔が丘の上の平地の傍に置かれ、上空を往来する神々に降臨を誘っているので、作庭当初は石塔が上空から良く見えたはずで、庭周囲に背の高い木はそれほどなくカエデもそれほど植えられていなかったはずだ。池周囲に小堀遠州らしいツツジの丸刈りがリズム良く植えられ、池の中の亀島が箕作城跡に向かっているようになっているが、これは元からある巨岩をより美しく見せるための演出で、書院、本堂、巨岩は中山道を往来する人々から良く見え、当坊が聖地にあることを見せていたのではないのだろうか。小堀遠州の庭は遥拝先の風景を切り取って来たものが多いので、池は勧修寺の池を模したものだと思う。書院から借景の箕作山を眺めるために普陀落の庭は活用されていたのだろう。現在、カエデを中心とした樹木に包まれているので、一見すると何かを秘めたような庭で、それが魅力となっているが、樹木が庭の目的を隠している。建屋の方向、神の通り道の多さ、庭中心の石塔から読み解くと、遥拝にて神の降臨をストレートに願う庭であり、中山道を往来する人々に聖徳太子以来の聖地があることを示していたと推測した。