桑実寺 観音正寺 

織田信長の躍進(4)

越前朝倉氏に低い身分で勤め始めた明智光秀が、一乗谷で入洛(じゅらく)の機会を探っていた足利義昭に、入洛を助けてくれるのは織田信長だと勧めた。足利義昭がその助言に従うと、たちどころに織田信長の同意が取れ、1568年(永禄11年)7月、足利義昭は2千人の越前朝倉氏軍に守られ岐阜城へ移る。8月、織田信長一行は親衛隊(馬廻衆)250名を従え京都に向かい出発。信長は佐和山城から観音寺城の六角義治に2回使者を送り通行を要望するも拒否された。一旦、信長一行は岐阜城に戻った。前年、浅井長政軍が南近江に侵攻し撃退されたことを教訓に、六角軍の数倍の大軍を整え9月、観音寺城近くに到着する。観音寺城の戦い主戦場は教林坊の眼と鼻の先にある箕作城、秀吉の機転により夕方、7時間以上にわたる攻撃を止め、この日の攻撃は終わりと安堵させ、裏をかき夜襲し落城させた。観音寺城にいた六角義賢・義治父子はあまりに早い落城に驚き、同日夜、居城の観音寺城を捨て甲賀に退却した。観音寺城に入った足利義昭は父親に倣い観音寺城ふもとの桑実寺に遷座、次いで入洛を果たし足利幕府最後の将軍に就任した。六角氏は南近江を取り返そうと画策するも、信長が軍を引き上げなかったため有効反撃できず衰退に向かう。この観音寺城の戦いは前年の浅井長政軍南近江侵攻とは異なり、織田信長には足利義昭の入洛を助ける、3年前、足利義昭を保護しなかった六角氏を排除すべき大義名分があった。短期間で大軍を揃え、且つ浅井軍、徳川軍を従えたことで、南近江をわずか1日の戦いで手に入れ、京都と岐阜城を結ぶ重要な道を確保した。これを見ると話がうまく行き過ぎているように思える。いきなり開戦するのではなく、先ずは脅威を感じさせない2個中隊程度の近衛兵による上洛団で南近江を訪れ礼節を持って通行願いを出すが断られたので、やむなく岐阜城に戻り大軍をまとめ、足利義昭の入洛を助けたことにしている。深読みすると、この時点ですでに信長は観音寺城付近の安土での新城建設計画を持っており、交通要所の南近江、観音寺城下の楽市楽座をまるごと手に入れるため、南近江の土豪衆らに礼節ある行動を見せ侵攻を行ったのではないだろうか。次に明智光秀の行動を見ると、明智光秀は天下統一事業の筋書きを作った人物の諜報員で、足利義昭と織田信長を結びつける目的を持たせられ、越前朝倉氏に送り込まれたと読める。信長は観音寺城の戦いを想定し、岐阜城を居城とした1567年(永禄10年)から観音寺城攻略の準備を開始、同年の浅井長政軍による侵攻は六角氏軍の状況を調べるため信長が長政にけしかけたものではなかったのか、観音寺城の戦いは周到な準備の上で行われたと思える。桶狭間の戦いは信長の天下統一事業の開始戦。観音寺城の戦いは観音寺騒動で弱っていた六角氏に付け込んだ目立たない戦だが、信長の天下統一事業を確固なものとした南近江占領戦だった。将軍となった足利義昭は順調に足場固めを始めるが、約1年余り後、(南伊勢)大河内城の戦いの戦後処理を巡って、足利義昭と織田信長の対立が始まる。義昭の目標は足利幕府の再興だった。足利幕府は応仁の乱を招くような、戦乱が戦乱を産む政権だったので、信長との対立が起きるのは当然だった。この記事を書くために桑実寺を訪れた。きぬがさ山の各寺院は戦火を受けたが、桑実寺は全く戦火を受けていない。1532年(天文元年)、義昭の父、足利義晴(12代将軍)は戦乱で乱れた京都を離れ、3年間、桑実寺で仮幕府を設置した。上述のように義昭も入洛の途中で桑実寺に滞在したので、足利幕府を偲べるもの、六角氏の痕跡があるかと思い参観したが、品の良い静かな寺で、仮幕府のあった正覚院跡、再建された(信長が作った)大師堂(経堂)を見るだけだった。1582年(天正10年)信長が外泊すると言って竹生島参拝に出かけた隙に、安土城の女中たちが規則違反し城を抜け出し桑実寺へ参拝に出かけた。ところが信長は外泊せず城に戻るも女中たちがおらず激怒、女中たちと女中たちを擁護した桑実寺の高僧たちを殺したと伝承されているが、その事件の痕跡はなかった。きぬがさ山頂上付近、観音寺城跡にある観音正寺も訪れた。合戦当時、観音正寺は観音寺城ふもとにあり焼失したが、戦いから29年後の1597年(慶長2年)現在地に再建された。足利氏、六角氏、織田氏を示すものは見かけなかった。本堂の傍、山を切り崩した後の斜面を保護するため近代に築かれた巨大な円弧状の石組が見事だった。本堂は沼島、おのころ神社、大阪城、石山寺、御山神社を遥拝している。おのころ神社と本堂を線で結ぶと大阪城(天守閣の西北約10m地点)-石山寺境内(光堂の西北約30m地点)-御上神社(本殿の左隣の摂社若宮神社本殿)-三上山を通過した。まるで本堂での祈りが円弧状の石組に反射し、遥拝線上の各聖地に届けられるような形になっている。この遥拝線の宇治平等院付近(遥拝線の西北約1㎞)には室町幕府が事実上滅んだ槙島城跡がある。本堂から沼島、おのころ神社を遥拝し約2度右側に槙島城跡があるので、本堂の祈りも槙島城跡に届くことだろう。ちなみにこの遥拝線を逆方向に伸ばすと(滋賀)甲良神社に至り、更に線を伸ばし続けると線の付近には多くの神社があり仙台東照宮付近まで到達する。このように観音正寺境内は多くの神々の通り道の下にある。観音寺城の戦いの痕跡は観音正寺において見かけなかったが、観音正寺から三上山(近江富士)方向の眺望は清々しかった。