金剛輪寺 明寿院庭園

江戸幕府に対する啓蒙庭

名勝庭園のある金剛輪寺本坊の明寿院、書院、庫裏、茶室,護摩堂は東南東の浜松城天守閣に、南南西の熊野本宮大社大斎原方向に向いている。書院内から正面に見た江戸初期の庭(主庭)は浜松城遥拝庭、書院内から建屋に沿い南南西に見た桃山時代の庭(南庭)は熊野本宮大社遥拝庭となる。遥拝先から推測するに書院には当地の領主(藩主もしくは旗本)が使う部屋があったはずで、主庭のあちこちに立てられた石灯籠、石塔は東方向の名古屋城・熱田神宮・浜松城・久能山東照宮・駿府城・江戸城・上野東照宮などを遥拝するための目印にみえる。石灯籠の火袋の向きが書院内に向いているものが多い。書院内の特定場所が遥拝点となっているはずだ。庭入口の小さな門から庭奥までそれぞれ桃山時代、江戸初期、江戸中期、江戸後期の作風を代表する南庭、主庭、北庭(江戸中期と後期の庭は連続している)が個別にあり、それぞれの庭は水路で連続している。四つの庭には江戸時代の起承転結がドラマ風に画かれている。道に沿って庭を回遊すれば江戸時代開始直前の桃山時代から江戸末期までの移り変わりが見て取れる。まるで江戸時代の歴史絵巻物のようだ。桃山時代の南庭は基本的に一面の苔面を見せる庭となっている。多くの樹木で覆われた暗い山中から水が流れて来るさまは、長い暗黒の戦国時代を表現している。手前側の池とその周りの低木樹による明るいところは、まもなく平和な時代が始まることを予感させる。桃山庭園らしい石橋が池に架かり、石橋を含めた石々と地面は苔で覆われ、その苔面が太陽光に照らされて庭に温もりを感じる。桃山時代にも戦国時代を締めくくる戦いが続いていたが、戦う目標が定まらなかった暗黒時代とは違い、平和な世を作るという明確な目標があり、技術革新がもたらした豊かさが人々に人の温かさを取り戻させていた。それが感じられる。太陽光や月光が池水面に反射し明るさを倍増させている。南庭の山中の暗黒世界と静かな池周囲の明るい世界とは、光が当たるか否かで大きく世界が異なることを見せている。庭に太陽が輝けば気が晴れる。桃山時代の庭池と江戸初期の庭池は水路で結ばれていて、水路の傍に護摩堂と茶室がある。茶室は当時、武将の間で流行していた茶道を表現し、護摩堂は平和を求める人々の祈りを表現している。茶道と祈りが平和な江戸時代へと導いた。江戸時代初期の主庭はリズミカルに配したサツキの丸刈りを基本としている。戦国時代が終わった江戸時代初期、全国民が新田開発に邁進した。その結果、爆発的な豊かさを得ることができた。桃山時代の文化が洗練され、元禄文化となり花開いた。なにもかもがうまく行っていた時代情景が画かれている。中央の枯瀧を大木の影の中とすることで奥深く見せ、書院が遥拝する浜松城方面から奥深い山を伝って水が流れて来たように見せ、池に豪快に枯水を流入させている。右側の茶室を山腹に貼りつけたように建て、左側の崖面のような枯瀧と対するようにして茶室を庭風景の一部としている。茶室の基礎石及び周囲の石を大きな石としたことで、茶室の存在感を高め、対する左側の枯瀧をより大きく感じさせるようにしている。左側の枯瀧は崖面に大きな石々を貼りつけたように石組むことで巨大瀧に感じさせている。伊吹山方面から流れて来た枯水が池に向かって豪快に落下している。石々から湧き出るエネルギーを水しぶきに見せている。枯瀧周囲の築山上のツツジは小ぶりの丸刈りとし、更にそれらを取り囲むツツジを大ぶりの丸刈りとして、視線がおのずと枯瀧にくぎ付けとなるようにしている。銀閣寺や沼島庭園で見た崖面に石を挿し込み祈りの壁にする技法を更にシャープに美しく枯瀧へと発展させたと感じた。山腹に多数のカエデ、その後ろに多数のヒノキの大木を生育している。武家の庭らしく「血染めの紅葉」が終わった後、庭のあちこちのマンリョーの赤い実が飛び散った血痕のようにちりばめられている。池の水は綺麗に澄んでいる。水深は浅い。平和な世となり美が繊細で洗練されたことが実感できる。茶室の主採光面は光の変化が少ない北北東で、広い採光面にて茶室内を明るくし、密談する必要がない時代になったことを感じさせるようになっている。主庭全体で戦国時代の殺伐とした記憶を慰めつつ、堂々たる武家の本分を表現している。江戸時代初期の庭と中期の庭を結ぶ部分の植栽部分はスギ、ゴヨウマツ、サツキ、ウバメガシなどの丸刈りをリズミカルに配し、池は峡谷のような所を通り抜けさせることで瞬く間に江戸中期に突入したことを画いている。北庭の江戸中期部分と後期部分は区切られることなくまとめられている。江戸中期に経済の停滞が起きた。徳川吉宗(1684年~1751年)第8代将軍が倹約、新田開発、経済振興の享保の改革を行い、将軍自らがリーダーとなり経済停滞を乗り越えた。倹約にて人々が内省的となったさまを深山幽谷の世界で表現している。庭の規模は初期の庭より小さくなったが、研ぎ澄まされた美的感覚は初期の庭を上回っている。峡谷に架かる石橋の奥には大きな枯瀧があり、轟々と枯水を流している。枯瀧の上流にアセビをたくさん植え、その背後にイヌマキを大木に育て、更にその背後にスギの大木群を配して山深い雰囲気を作っている。山深い所にある枯瀧は峡谷の幅より大きく、こちら側に向かってくる。その枯瀧に向かうように池の中に石舟を配し、歩道が枯瀧の上側に向かい、枯瀧の右側の築山がエネルギーを枯瀧に向けている。遠近法を利用し石舟、歩道、築山が枯瀧に向かうように配されている。鑑賞者の視点は自然と枯瀧に向かうようになっている。それに対し枯瀧は逆遠近法にて鑑賞者に迫ってくるようにしている。この技法で、枯瀧が鑑賞者の心の中で大きく膨らみ、心に沁みる。この枯瀧を鑑賞するための茶室があったのではないかと思った。中期の庭から後期へは時を過ごしていたら気づかぬうちに後期の庭に入っていたというふうになっている。享保の改革で息を吹き返した日本経済だったが、米の生産量の頭打ちで行き詰まりを迎える。打開するため田沼意次(たぬまおきつぐ1719年~1788年)が享保の改革を見習い、新田開発と蝦夷地開発にて米増産を画策し、革新的な対外開放政策を行い、商人の資本を利用した事業展開を行った。そして一時的に財政を健全化させた。しかし武士階級の地位低下を恐れた人たち、彼の出世を妬む幕臣達により田沼意次は引きずり降ろされた。それ以降、政策は鎖国主義となり、民から富を絞り取る方向へと流れた。全国で一揆が頻発するようになった。1787年、第11代将軍就任直後に田沼意次を罷免した徳川家斉(いえなり1773年~1841年)は50年間も将軍職にあり、将軍職を譲った後も実権を握り続けた。徳川幕府は民から絞り取った富を第11代将軍が浪費するといった腐った組織へと転落して行く。後期の庭は趣味の世界に流れた老人世界を画いている。穏やかで静かな恍惚の世界を表現している。中の島に立つ石灯籠には火袋がなく世間を暗黒の世界へ導いている。鳥小屋が庭池を汚しているように感じさせる。おそらく火袋の無い石灯籠は暗君、徳川家斉を、鳥小屋は大奥を表現しているのだろう。中の島(亀島)の護岸石組み、中の島と手前側を結ぶ石橋は力なくどことなく滑稽である。東庭(主庭)が見せた武家魂が欠落している。江戸後期に幕府が行った度を越した増税と民に下ばかりを見せる被差別民に対する差別政策は愚かな政策だった。庭背後の平らな広い苔面は徳川家斉を模した火袋のない石灯籠を見つめる民達のために用意された見物台なのだろう。商人から借りた多額債務を踏み倒し、百姓・町人に対し酷い増税を行い、百姓・町人をなだめるために行った被差別民に対する酷い差別政策は明治維新への原動力となり倒幕へと進んだ。北庭まで進んだ道は更に山の中へ続いている。その道は次の戦争が続く暗黒の世界に突入することを暗示している。以上4つの庭では江戸幕府の勃興、興隆、改革による平穏、そして転落が見事に描かれている。4つの庭は誰がどのような意図で作ったのか興味が涌く。繊細な日本人は桃山文化を発展させ、熟成させた。しかし幕府組織が幕臣ら役人の既得権獲得競争の場となり、トップの徳川家斉の腐敗で、侵略戦争を起こさせない素晴らしかった組織は疲弊し、文化は老体化してしまう。4つの庭は江戸時代の歴史を美しく画き、幕府に対し告発、警告を行ったものだと思う。現代に通じる啓蒙庭とも取れる。腐ったトップが酷い増税で国民(社員)を疲弊させ、国民(社員)に自由競争と言う名のもと足の引っ張り合いをさせ、貧困層を見せ恐怖を与えて下を向かせて歩かせ続ければ、国(会社)そのものもが衰退し暗黒の道に進むことを教える。