慈光院

庭中心に神の着座石が置いてあるので多くの神佛の通り道の下に当院があるはずだと思いグーグル地図で調べてみた。永平寺法堂と(高野山)金剛三昧院本堂を結んだ線は当院東側の池を通過する。(京都)下鴨神社東本殿と(奈良御所市)日本武尊白鳥陵中心を結んだ線は当院の駐車場西側を通過する。(奈良)仁徳天皇皇后ヒシアゲ古墳中心と(和歌山)丹生都賣神社を結んだ線は平城京第二次大極殿跡、唐招提寺境内、当院本堂、庫裏を通過する。(奈良)郡山城天守台と法隆寺夢殿を結んだ線は当院本堂北側の建屋を通過する。(奈良)東大寺大仏殿と法隆寺五重塔を結んだ線は興福寺境内、当院の庭を通過する。(奈良春日前山)御蓋山頂上付近の春日大社本宮神社と(羽曳野)日本武尊白鳥陵中心を結んだ線は当院の本堂北側の建屋を通過する。御蓋山頂上と(羽曳野)安閑天皇陵中心を結んだ線は当院東側の池、及び高林庵(片桐城跡)を通過する。(奈良春日奥山)花山頂上と(羽曳野)応神天皇陵中心を結んだ線は当院の本堂、庫裏を通過する。春日大社の神域、春日山(花山、御蓋山)は広大で、(羽曳野)日本武尊白鳥陵、応神天皇陵、安閑天皇陵も大きいので、当院及び片桐城跡はこれら神々の通り道の下に包まれている。公家(百済系)の代表、藤原家の氏神を祭る春日大社、武家(新羅系)の祖先、応神天皇、日本武尊の古墳、両方の神が往来する帯状の神の通り道の下に当院と片桐城跡がある。公武を結びつける意味を持たせるためこの地を選んで当院を設立したのだろう。石清水八幡宮と(明日香村)岩屋山古墳を結んだ線は当院書院の東外側、綏靖(すいぜい)天皇桃花鳥田丘上陵、そして橿原神宮境内をかすめる。岩屋山古墳周辺には多数の古墳がある。書院、上の間(A点)と飛鳥寺本堂を結んだ線は耳成山頂上付近を通過する。A点と三輪山頂上を結んだ線は景行天皇山邊道上陵中心付近を通過する。A点から南を見て右は新沢千塚古墳群付近、左は崇神天皇山邊道勾岡上陵付近までの範囲で白砂が敷かれている。この範囲内には三輪山(大神神社の神体山)、大和三山(天香久山、畝傍山、耳成山)、甘樫丘、飛鳥京遺跡、藤原京遺跡、そして多くの古墳や寺社がある。日本人の心の故郷の聖気を白砂に反射させ書院内に取り込む形になっている。南側の樹木を伐採すれば明日香方面の各聖地をA点(上の間)から直接遥拝できるはずで、庭に聖地遥拝目印の石灯籠が置かれていないのは多くの聖地を直接遥拝できるからだろう。(京都)二条城、二の丸御殿入口の唐門と熊野本宮大社大斎原を結んだ線は書院建屋内の西側を通過する。書院と本堂はこの南北方向線に沿って建てられているので書院と本堂は二条城と熊野本宮大社を遥拝している。(浜松)浜松城天守閣中心と(広島)福山城天守閣中心を結んだ線は書院中央を通過する。書院と庫裏はこの東西方向線に沿って建てられているので浜松城と福山城を遥拝している。書院内から建屋に沿って南の庭を眺めることは二条城を背に熊野本宮大社を遥拝することに通じ、書院内から奈良盆地の先の東の山を望むことは(最後の近世大規模城)福山城を背に(出世城と呼ばれた)浜松城を遥拝することに通じている。南北と東西の遥拝線が交叉するところに、遥拝する向きに書院を建てたことが読み取れる。書院、本堂が遥拝している熊野本宮大社大斎原を南の聖地起点と定め、北の聖地起点を晴明神社(隣接して千利休の屋敷があった場所)とすると、結んだ線は二条城外堀付近、当院東の池の西辺を通過する。北の聖地起点を上賀茂神社の摂社新宮神社とすると、結んだ線は妙覚寺境内、裏千家今日庵、表千家不審庵、当書院約200m東の富雄川の流れに沿って通過する。更に摂社新宮神社本殿建屋は熊野本宮大社大斎原を遥拝しているので祭神オカミノ神は妙覚寺境内、裏千家今日庵、表千家不審庵、熊野本宮大社を見つめている。龍安寺伽藍は南の(玉置山)玉石社を遥拝しているが、龍安寺仏殿と玉石社を結んだ線は妙心寺境内塔頭群と当院東側の池を通過する。龍安寺本尊の視線の先の一つに当院があり、その線に沿って建てられた庫裏は北に龍安寺、妙心寺、南に玉石社を遥拝している。このように書院内から東の空に多くの神佛の通り道があり、南北方向に往来する多くの神佛を望む形となっている。書院から見た東の空が美しく感じるのは多くの神仏の通り道があるからだと思う。更に、通過する多くの神佛が当院上空で交叉している。書院、庫裏、仏殿が神佛の通り道に沿う方向に建てられ、聖地を遥拝している。これまでの庭鑑賞で遥拝、神の通り道を庭に取り入れると美しくなり、潰されることがないことを教えられた。当院のような万全な庭は少ない。当院創立者、大和小泉藩第2代藩主、片桐貞昌(石州1605年~1673年)は桑山宗仙(1560年~1632年)から茶道を学び、千宗旦(1578年~1658年)、小堀遠州(1579年~1647年)、松花堂昭乗(1582年~1639年)との交流にて研鑽を重ね、石州流茶道を創設した。1665年(寛文5年)幕府第四代将軍、徳川家綱(1641年~1680年)の茶道が小堀流から石州流に切り替えられ将軍の茶道指南役となった。門弟は保科正之(1611年~1673年)、徳川光圀(1628年~1701年)なので、将軍および徳川家中枢に仕えたことが読みとれる。石州が當麻寺中之坊庭園(香藕園)を改修したのは1653年(承応2年)頃、当院創立は10年後の1663年(寛文3年)なので石州流の美しさの頂点にある庭、書院、茶室であるはずだ。石畳の参道は、約50m南の小泉城跡(石碑)に向かって伸びている。江戸時代は参道を下る際、参道の先に城郭が見えていたはずだ。一之門から二重茅葺きの山門(茨木城楼門)までの間は大人二人が歩ける幅の石畳でつながっている。その間の両側には比較的背の高い木々が植樹されている。灰色系の石畳と相乗し鬱蒼としている。木々の根が浮かび上がり異次元のような世界となっている。南向きの山門(茨木城楼門)は片桐貞昌(石州)の出生地、摂津茨木城の楼門を移設したもの、屋根は書院に合わせて茅葺きに葺き替えたもの。茨木の復元城門は瓦葺きだった。片桐氏が茨木城の城主になる以前の城主は中川清秀、妹婿は古田織部なので、石州公は生まれた時から茶道家に縁がある。将軍の茶道指南役だった小堀遠州、片桐石州は自害に追い込まれた先輩、古田織部のようにならないよう、自らの行動に細心の注意を払っていたことが想像できる。石州の藩主後継者(息子)片桐貞房が石州流茶道を継がなかったことからも将軍に仕えることの重責が読み取れる。書院東端から大刈込越しに東の借景を見ると、脚下の溜め池、奈良盆地、その先の山並みが展望できる。庭として一番自然な天、山、地、沢を見せる配置で、大名庭園によく見られる形となっている。眺望は田畑で働く藩民と心の交流をするに適しているので大和小泉藩の大名庭園を兼ねていたことが見て取れる。南側は白砂の先にサツキの丸刈りと多くの樹木からなる大刈込が配されている。大刈込の鮮やかな色彩、ふくよかさが目を引くので、小堀遠州が丸刈り、大刈込にて庭にリズムをつけたことを発展させ、(今は大きくなった樹木で隠されている)借景の山々をリズミカルに見せる新たな美の世界を作り上げたのだと思う。三尊石、亀島、鶴島、枯瀧を設けないことで蓬莱山の頂上を表現し、神の着座石にて神が歓談する聖なる地の傍に石州流の中心になる茶室を備えた書院があるという意味を持たせている。当院は奈良盆地の西側中央にあり、西日を背に奈良盆地を一望できる地にある。地図を見ると東北東に神功皇后陵、薬師寺、唐招提寺、平城京跡、郡山城が、東北方向に東大寺、興福寺、春日大社が、東から東南方向に多くの古墳、岡山藩が遥拝していた石上神宮、古い神社の一つ大神神社とそのご神体の三輪山が、東南東から南方向に藤原京跡を囲む大和三山、明日香村が、南南西に馬見丘陵、法隆寺が見渡せる地にあることが判る。これだけ多くの聖地をそれぞれ個別に直接遥拝できる地にあるのに、眺望を庭に取り込まなかったはずがない。書院内から東北方向が見えないようにしているのは郡山藩に遠慮してのことだろうが、近代に仏殿が建てられる以前、茶室露地の先に郡山城が見えていたのかも知れない。大和小泉藩に大和国(奈良)監視の役が与えられていたはずで、奈良盆地を一望に観察できるこの地が現在のように眺望の半分以上、樹木で覆われていたはずもない。単純構成の庭なので、創設当時に眺望を妨げる樹木はなく奈良盆地全体とその先の山々を借景としていたことも庭の形から見て取れる。書院(上の間)に座り東を望むと天と山が観察できる。好古園双樹庵の記事で書いたが天(将軍)と山(大名)の間に入り茶会を進行させる亭主の役割を考えるための庭となる。書院(上の間)に座り南を見ると、現在は樹木で天空が隠されているが、本来は白砂と天空(天)が強調される配置となっている。庭に白砂が敷かれているのは天空を映す白砂を天と見なし、天と天を結びつけることについて考えるためだと思う。江戸時代、庭に白砂を敷けた寺社はごく一部だったので、幕府から石州に天(天皇家)と天(徳川家)を結びつける役割が与えられていたからこそ庭に白砂が敷けたのだろう。京都の高い位の寺院の方丈前庭に白砂が敷かれているのも、それら寺院に公武結合の役割が与えられていたからだと思う。徳川家綱将軍が後水尾上皇、後西天皇、霊元天皇と茶会を行ったかどうか調べきれなかったが、石州が将軍の茶道指南役として活躍した寛文(1661年~1673年)年間在位された後西天皇(1638年~1685年、在位期間1655年~1663年)は石州より33歳年下。霊元天皇(1654年~1732年、在位期間1663年~1687年)は石州より49歳年下。天皇家の真の権力者、後水尾上皇(1596年~1680年)は石州より9歳年上。徳川家綱将軍は石州より36歳年下だった。天(上皇、天皇)と天(将軍、徳川家中枢)を結びつける茶会における亭主の4つの振舞いについて易経の観点で書きだしてみた。両者の結びつきが成功すれば「1乾為天(けんいてん)天は高くして宏大」何物をも支配する巨大な力となる。亭主がどちらかの側に寄って、例えば将軍の正しい政策を支持し、その偉大な政策の流れに沿い「25天雷无妄(てんらいむぼう)天の運行の如く」振舞ってしまうと、茶会は「10天澤履(てんたくり)虎の尾を踏む危なさ」となってしまう。茶室、閑茶室近くに女(め)の字手水鉢が置かれているのは、そのような危ない事態となったら、女性の感性、女性が細かい所に気がつくように、小さな変化を見逃さず、少女のように柔らかい物腰で、礼儀正しい作法にて二つの天に従う姿勢を見せ、無事に過ごし危機回避するしかない。石州が将軍茶道指南役を無事に勤め上げれたのも、女性の感性に重きを置いていたからだろう。仮に後水尾上皇と保科正之、徳川光圀との茶会が開催されたとすれば、両方の側に寄り「1乾為天(けんいてん)天は高くして宏大」身分の高い両者を更に高く持ち上げ、宏大な力を持つ両実力者が実は更なる宏大な力を持つ実力者であると表現し、茶室を「1乾為天」のような大宇宙の世界にし、両者は国家の根源的な存在であることを浮かび上がらせ結びつける。これが最上の茶会だと思う。天皇、将軍ともに石州より年下だった。位が低い石州が、位が高い両者に教養を蓄えてもらうために「26山天大畜(さんてんたいちく)実力涵養」の振舞いをした場合、茶会は「9風天小畜(ふうてんしょうちく)少しく畜(とど)められる」短い期間であるが亭主が指導者となり、上位者が修養を行う場となる。亭主が中道の立場で「27山雷頣(さんらいい)食し養う」ごとく両者の説明を良く噛みくだき、両者の説明を正しくまとめるが、言語はできるだけ慎み、節度を保つと「61風澤中孚(ふうたくちゅうふ)誠意内にあり」親の子に対する情のような、大いなる愛と信が両者の間に生まれ結びつく。石州は書院から南の庭を眺め天(将軍)と天(上皇、天皇)の間に入り茶会を進行させることを思索していたと思う。一見単純に見える庭だが借景をも単純化させ思索の世界へと誘い込む庭となっている。