宇佐山城

織田信長の躍進(8)

1570年(元亀元年6月末)姉川の戦いに勝ち、横山城を手に入れ、佐和山城の兵糧攻めを始めた信長に困難が降りかかってきた。2年前、足利義昭入洛の際に撃退し近畿から追い出した三好三人衆が元亀元年8月、淀川下流の中州にあった野田城、福島城で挙兵した。それに対応し、信長が出陣し戦が有利に傾き始めた9月(現在の大阪城にあった)石山本願寺の顕如が突然蜂起、顕如の蜂起を好機ととらえた浅井長政、朝倉義景が連合軍を編成し京都を目指した。第一次信長包囲網が発動した。琵琶湖東岸~南岸には佐和山城を囲み、安土を守る織田軍がいるので、連合軍は手薄な琵琶湖西岸を南下し宇佐山城に向かった。迎え撃ったのは宇佐山城を下りた(宇佐山城城主)森可成、(野府城主)織田信治(信長弟)、青地茂綱(蒲生賢秀の弟)3名が率いる防衛部隊千名のみで、坂本で浅井朝倉連合軍3万を待ち伏せた。9月19日、小さな勝利を得たが、顕如の要請にて比叡山延暦寺僧兵が加わり連合軍は更なる大軍となった。20日、連合軍は側面攻撃を仕掛け防衛線を崩し、次いで浅井軍本隊が突入、3名の指揮官は戦死、防衛部隊は崩壊した。引き続き宇佐山城が攻められたが、各務元正らが指揮し千名で防戦、24日、信長が救援に現れるまで宇佐山城は落城しなかった。宇佐山城が手堅いと見た浅井朝倉連合軍は、京都入りを急ぎ22日に山科まで進む。対し23日に信長軍は40㎞の道のりを一日で大阪から京都に戻り浅井朝倉軍の京都入りを阻止した。24日、浅井朝倉軍は信長軍が滋賀に入るまでに千名以上の戦死者を出し宇佐山城を猛攻撃するも落とせず、25日、浅井朝倉連合軍は、壺笠山城や比叡山などに引き籠ってしまった。結果、宇佐山城に駆け付けた信長軍はそれから長期間、宇佐山城に張り付かされる事態となった。石山本願寺の蜂起に連動して、9月、長島一向一揆が勃発(周囲の小豪族も参戦し長島城などが長島一揆軍に奪われる)。10月、篠原長房率いる阿波・讃岐の援軍2万が上陸、摂津などにいた織田軍を蹴散らし野田城、福島城に入城する。11月、長島一揆軍に攻められた小気江城が落城し(城主で信長の弟)織田信興が80名の部下と共に自害した。信長はそれぞれと和睦せざるを得ず、最終、12月に浅井朝倉連合軍と和睦、志賀の陣は引き分けに終わった。しかしながら信長は自らに手向かった相手に必ず倍返しする人で、先ず信長包囲網発動に合わせゲリラ戦を仕掛けて来ていた六角氏と11月に和睦した。その和睦が事実上の六角氏の滅亡となった。その後、六角氏からゲリラ戦を仕掛けられるが六角氏に協力した村を焼き、百済寺など寺を焼き、信長体制の強化につなげた。翌年1569年、信長は比叡山焼き討ちにて延暦寺へ倍返しした。(三好三人衆)三好宗渭は野田城・福島城の戦いの前年(1569年)すでに阿波で亡くなっており、(三好三人衆)三好長逸は1570年に摂津中嶋城で織田軍と戦った後、行方不明となった。(三好三人衆で一人残った)岩成友通は1573年(元亀4年2月頃)第二次淀古城の戦いで織田軍に攻められ戦死した。1573年(元亀4年7月16日)三好氏の家臣、篠原長房は上桜城の戦いで自害した。信長包囲網を作った足利義昭も(元亀4年7月18日)槙島城の戦いに敗れ、室町幕府の事実上の終結となり、京都から追放された。1573年(天正元年8月)一乗谷の戦いで朝倉義景は自害した。(天正元年9月)小谷城の戦いで浅井長政は自害した。長島一向一揆は1574年(天正2年)第三次長島侵攻で兵糧攻め、籠る約3万人略全員を餓死、騙し撃ち、焼き殺し終結した。顕如は同盟の朝倉氏、浅井氏、足利氏の滅亡後も信長と単独で対抗し続けるも、海上封鎖により毛利氏から兵糧が届かなくなり1580年(天正8年)朝廷を介し信長と和睦、石山本願寺を去った。信長はやられたら必ず報復する人なので、自らが行ったやりすぎと思える倍返しは、いずれ自らに報復の形で帰ってくること、自らに害が及ばなくとも子孫に害が及ぶことを覚悟していたはずだ。頭の良い人なので本能寺で自害したことにすれば、自らが行ったやり過ぎ行為を消し去ることができると考え、目標としていた天下布武が達成した段階で消え去り、地下に潜ることも考えていたのではないだろうか。